長谷川一夫のロマンス座の地方巡業、志水とし子
長谷川一夫のロマンス座の地方巡業、志水とし子
昭和二十四年、六月の大牟田は雨だった。
長谷川一夫はロマンス座の地方巡業の途中でこの町に降り立ち、赤レンガの校舎を借りての臨時公演の準備を進めていた。戦後の混乱からようやく立ち直りかけていた時期。町の人々は、有名俳優がやって来るという知らせに沸き、会場は開演前からにぎわいを見せていた。
だが、長谷川はその日の昼下がり、舞台袖の片隅で、一人の少女と出会う。
彼女は制服のまま、濡れた傘を抱えて立っていた。中学生くらいだろうか。顔には土埃がつき、スカートの裾には泥。明らかに、どこからか走って来たような様子だった。
「……失礼します。あの、ロマンス座の方ですか?」
警戒心と切実さが入り混じった声だった。
長谷川は頷き、彼女を遮るようにスタッフが近寄ってきた。
「この子、さっきから楽屋口の前にいて、出ていかないんです。関係者かと思いましたが……」
「――かまわない。話を聞こう」
少女は名を名乗った。志水とし子。大牟田の中学に通っていたが、今は家を出てきているという。
理由は言わなかった。ただ、「どうしてもついて行きたいんです」と、彼女は繰り返した。
「どこにも戻れません。芝居がしたいんです。ずっと、映画館であなたの顔を見てきました。……うそじゃありません」
長谷川はしばらく黙っていた。こういう子供を、戦後はよく見かけた。親を失った者、家庭に居場所のない者、夢しか頼るもののない者。
その目に、飢えにも似た光があった。
舞台の光を夢と呼ぶには、あまりに剥き出しのまなざしだった。
「君の年齢では、旅までは連れていけない。それはわかるね」
「はい。でも、ここにいたって……生きていけません」
その言葉が、彼の心を打った。
一座に加えられる余裕はない。だが、だからといってこのまま置いていくこともできない。
「……とし子さん。君が本当に芝居をしたいと思っているなら、今夜の舞台の片付けを手伝ってくれないか。荷を運び、道具を拭く。それができるなら、明日、次の町に連れていこう」
彼女は大きく頷いた。その顔に浮かんだ安堵の色は、まだ子供のものだった。
その夜、志水とし子は袖から舞台を見守り、終演後の荷物を黙々と運んだ。誰よりも遅くまで残り、最後の照明が消えるまで立ち尽くしていた。
この日から、彼女の旅が始まった。
炭鉱の町を離れ、流浪する一座に身を寄せながら、やがて東京へ。演じることを学び、自らの名をつくっていくことになる。
「志水とし子」という少女は、その夜を境に、少しずつ「ジプシー・ローズ」としての人生を歩み出していた。