1949年のロマンス座(浅草)を舞台に、長谷川一夫
1949年のロマンス座(浅草)を舞台に、長谷川一夫
1949年、春。戦後の瓦礫がまだ街角に影を落とすなか、浅草・ロマンス座の前には、黒山の人だかりができていた。
「長谷川一夫、舞台復帰──だとよ!」
誰かがそう叫ぶと、通りすがりの若者が立ち止まり、古びたポスターを見上げた。墨色の背景に浮かぶ美男の横顔。髷を結い、剣を帯びたその姿は、まさしく銀幕の二枚目、長谷川一夫その人であった。
舞台の演目は『雪之丞変化』。昭和14年の映画で絶賛されたあの役を、今度は自らの肉体で演じるというのだ。戦前から戦後をまたいだ大看板のこの復帰に、浅草はかつての活気を少しだけ取り戻していた。
開演前、ロマンス座の楽屋には、古びた鏡台に向かう男の横顔があった。
「……まだ、あの時の台詞、覚えているんだな」
そう呟いた長谷川の指は、白粉を軽く撫で、口元を整えた。
戦争が終わっても、映画界は混乱の最中にあった。日活は再建の途上、松竹も東宝も一時閉鎖。GHQの検閲、焼け跡の映画館、そして映画スターの転落や移籍。長谷川一夫とて例外ではない。松竹を出て大映に移った彼は、しばしスクリーンを離れ、こうして舞台へ戻る決意をしたのだった。
「お客は……入ってるか?」
「満員でございます」
ロマンス座の支配人が恭しく答えると、長谷川は一瞬目を細めた。戦前から何千人を沸かせてきた男の目だったが、その奥にあったのは、ひとりの表現者としての執念と、不安と、期待だった。
幕が上がる。ざわめきが消え、漆黒の闇に拍手がこだまする。そこに一条の光が差し、長谷川演じる雪之丞が、静かにその姿を現す。
「今宵こそ、仇を討たねばならぬ」
低く響く声に、観客が息を呑んだ。
客席の一角には、戦地から戻ったばかりの青年がいた。戦争ですべてを失い、生きる意味を見失っていた彼は、たまたま配給所でこの芝居の券を渡されたのだ。
その青年の目に、雪之丞の悲哀と美しさが焼きついた。生き延びた者の哀しみ、家族を奪われた怒り、そして、仇討ちの決意。舞台の上の長谷川は、まさにそのすべてを体現していた。
やがて幕が下り、万雷の拍手がロマンス座の天井を揺らした。カーテンコールを終えた長谷川は、静かに舞台袖に戻った。
支配人が駆け寄り、「素晴らしい出来でございました」と声をかけた時、彼はただ微笑んだ。
「映画でも舞台でも、人間を演じることに変わりはないさ。ただ──こうして、生の拍手を浴びるのも、悪くないな」
その夜、浅草の灯は、ほんの少しだけ戦前の賑わいを思い出していた。
そしてロマンス座の舞台に立つ長谷川一夫の姿は、敗戦から立ち上がろうとするこの国のひとつの象徴であり続けたのである。