ジプシー・ローズの最後 サンズリバーサイド外伝
夜の防府は、どこか都会の終電に似ていた。
人がまばらになった駅前を少し歩いたところに、小さな灯りのともる店がある。
スナック「ジプシー・ローズ」――その名前を、誰が付けたのか、もう覚えている者は少ない。
だが、あの時代、この町には忘れがたい二人の人間がいた。
女の名は志水とし子。芸名はジプシー・ローズ。
男の名は正邦乙彦。東京で名の知れた舞踊の指導者。詩人でもあった。
とし子は、若いころ銀座のレビューに立っていた。
踊りで生きると決めたその日から、彼女の人生は舞台の光と影の中にあった。
その背中を押したのが乙彦だった。
「表現には技術がいる。心を伝えるには、まず身体の置き方を知れ」
彼の言葉に、とし子は従順だった。
だがある日、彼女の股関節が壊れた。踊りは終わった。
それでも乙彦は、彼女のそばを離れなかった。
自らの家庭を捨てて、とし子と共に山口県防府市へ向かった。
防府市の片隅で、二人は小さなスナックを始めた。
店名はローズの芸名から取った。夜ごと、酔客が集まり、語り、泣き、笑った。
ローズはもう踊らなかった。
唄うことも、最初のうちは避けていた。
声が出なかったのではない。酒を飲みすぎて、もう美しく唄えなかったのだ。
「ママ、今夜は一曲、お願いよ」
「やめとく。昔の声が、耳に残ってるうちはね」
そう言って彼女は、ショットグラスにウイスキーを注ぎ、黙って飲み干した。
ある夜のことだった。
とし子は、急にベッドから体を起こし、乙彦を揺り起こした。
「パパ、起きてよ。さっきから、誰かが外で『ジプシー・ローズはアル中だ』って怒鳴ってるの」
乙彦は慌てて外に出た。だが、誰もいなかった。
ただ、静かな夜の風が、海の方から吹いてくるばかりだった。
その翌日、彼女は2階のトイレで「ドスン」と倒れた。
音を聞いて駆けつけた乙彦が見たとき、すでに彼女は息をしていなかった。
急性心不全だった。
享年は、32歳だったとも、35歳だったとも言われる。
通夜の日、乙彦はとし子の枕元にそっとウイスキーの瓶を握らせた。
彼女がいつも好んで飲んでいた銘柄だった。
「ほんとは、これをやめさせたかったんだよ。でもな、ローズ。お前はこれがないと、生きてなかったよな」
彼の声は、涙と酒に濡れていた。
店の灯りは、それから二度と点くことはなかった。
今、防府市のあの場所には何も残っていない。
けれど、夜風が吹くたび、酒と歌と踊りの残り香が、ふと漂ってくるように感じる人もいる。
それはきっと、ローズが最後まで「表現者」であった証だ。