オードリーヘップバーンの墓 サンズリバーサイド外伝
サキは、スイスの小さな村に降り立った。標高の高いこの土地は、空気が澄んでいて、まるで時間の流れまでもがゆったりと感じられた。
目的はただひとつ――青山光子の墓を見つけること。
ヨーロッパ連合を提唱した政治思想家・青山栄次郎。その母である光子は、戦後の混乱を離れてこの地に渡り、静かに人生を終えたという。
彼女は政治家でも文化人でもなく、歴史の陰にそっと寄り添っていた存在だった。けれど、息子の遺した理念と足跡を知るためには、どうしてもその始まり――母・光子を知る必要があると、サキは思っていた。
だが、墓の在処を示す手がかりはほとんどなかった。地元の役場も教会も、記録を辿る術を失っていた。まるで彼女の存在そのものが、歴史から意図的に消されてしまったかのようだった。
サキは、疲れた足で丘を登りながら思った。「母の名を探す旅が、こんなに孤独なものだなんて……」
そのときだった。ふと顔を上げたサキの視界に、見慣れた名前が飛び込んできた。
――「オードリーヘップバーン墓地前」
白い標識に、世界的に有名な大女優の名前が、スイスの風景の中にあっさりと溶け込んでいる。
サキは、思わず小さく笑った。
「大女優はバス停になるのに、世界を動かした母親は道しるべもないのね」
でも、その名札のあるバス停のすぐ裏手に、古びた教会があり、そのさらに奥、小さな石畳の小道が伸びていた。
静かな墓地。無数の十字架。
その一番端、名もない木の根元に、ひとつだけ風化した石碑がぽつんと立っていた。
「青山光子」と、かすかに読めた。
サキは立ち止まり、深く一礼した。
この地に、確かに母がいた。名もなく、静かに、しかし確かに――歴史の始まりが、ここに眠っていた。