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##11 麻薬でグッド・バイ

##11 麻薬でグッド・バイ


五月二十日

妻は一時帰宅となった。

普通に歩ける状態ではなく、戻り先は実家となった。

入院期間の調整だ。

妻の状態では治療しても治らない。

医者から終末ホスピスの病院を探す話になった。

六月七日に再入院した。

サイトメガロウイルスが暴れだした。

昔からあるウイルスで普通に人の中にいるそうだ。

健康であれば感染しても症状が出ないウイルスだが、

免疫がゼロに近くなると猛威をふるうようだ。

妻が言っていたが、白血病にさせる細菌も普通に人は持っている。

発病するか、しないかだけだそうだ。

再入院先は同じ病院で安堵したが病棟が違った。

弟からDVDプレイヤーを借りた。

妻は映画が観たいという。

「なにか、オススメの映画はある?」と妻がたずねた。

妻は田村正和のファンで、

田村出演のテレビドラマや映画はほとんど観ていた。

「おすすめある?」と妻が聞いた。

「一番好きな映画は『ショーシャンクの空に』だよ。

今度、持って来るよ」と僕は言った。

『ショーシャンクの空に』を持っていった翌日の妻の顔は今でも忘れない。

まだ私を苦しめるつもり?

妻は落ち込んでいた。

映画の感想はノーコメントだった。

長年一緒なので顔色でわかる。

映画の内容を思い返した。

『ショーシャンクの空に』は脚本ではナンバーワンだと思っている。

スティーヴン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース』の映画化だが、

実話じゃないそうで、原作小説は味気ない。創話の妙は神業だ。

感動するのは絶望を超えて生き抜いていくところだ。

次のセリフが有名だ。

「人間の心は、石コロでできているわけじゃない。

心の中にはあるのさ。

他人には奪えないものが、お前の心にもな」

「なんなんだ?それは」

「希望だよ」

世界レベルでのネット映画ファン投票、おそらく十億人以上でナンバーワンの作品だ。

僕は主人公が刑務所に入ってからの印象しかなかった。

再見してわかった。前半に問題があったのだ。

主人公は不倫妻を殺して刑務所に入るのだ。

すっかり忘れていた。皮肉すぎる。


六月十二日

下痢が止まらないと言う。

点滴の針を刺す場所がなくなり、

胸に穴を開けようとして肺を傷つけて気胸となった。

妻は医療ミスだと泣き出していた。

腸のサイトメガロウイルス、肺のアスペルギルスは治りかけている。

六月十六日 

結婚満二十周年だが、忘れ去られている。

気胸、肺に侵入したアスペルギルス、

腸に侵入したサイトメガロウイルスは退治できたが下痢が続く。


七月三日

妻はストレスがたまっている。

担当看護師の対応が気にくわないようで癇癪を起こした。

肺炎を起こしてしまった。

下痢は少し良くなるが唾液が出ないという。


七月六日

丸山ワクチンの説明を受けるために、

妻を車椅子に乗せて別の棟にある「丸山ワクチン療法研究所」に移動した。

大学病院でも孤立しているようで、関係者は医師ではなく、

丸山ワクチン信者だった。

患者側で団体をつくって運営されているように思えた。

白血病で病院に緊急入院した頃に、知り合った患者に言われた。

「最後は丸山ワクチンがある」という言葉が妻のなかにあった。

担当の医師は丸山ワクチンに関しては否定的だった。

丸山ワクチンの説明会に出席した。

「結核になるとガンにならない」という点に着目して丸山ワクチンの研究がなされた。

医療では異端視扱いされているようだ。

すがる思いだったが、退院した昨年の健康時に投与していたら効果があったと思った。

 

七月十一日 

妻の容態が急変して意識がなくなってしまった。

アスペルの肺炎は新薬投与で劇的に治りつつあるという。


七月十三日

十一日から眠り姫になっていたが、意識が回復した。

原因はビタミン不足だと言われた。

再び妻の体で点滴する場所がなくなった。

胸付近からとろうとして、間違って肺に穴を開けたり、小さい医療の不手際が続いた。

妻がいる病棟の部隊は治療というよりは延命処置の部隊。

野球でいうと敗戦処理専門で、会社では不要書類をひたすらシュレッダーに入れるだけのセクションに思えた。

肺のサイトメガロウイルスが復活した。

普通は心臓から弱るらしいが妻の心臓は人より頑丈だと医者は太鼓判を押したので、死神は肺に向かう。

天気は七月なのに、梅雨があけず、雨がずっと降っていた。


七月十六日 

妻の誕生日だが、もうそれどころではない。

丸山ワクチンがやってきた、九千四百五十円、四十日分、

薬ではないようでその場で支払った。

注射は医者が行う不思議、奇跡を願うだけだ。

「丸山ワクチン打ったぞ」と妻に言ったが、反応がない。

医者が妻はわかっていると言っていた。


七月十八日

担当医師からあと二、三週間と言われた。

白血病細胞が多くなったそうだ。

肺に水が溜まり出して、肺呼吸ができずに死ぬようだ。


七月十九日 

妻に告知した。残酷だが、僕だったら告知してほしいので、

「あと三ヶ月だ」と妻に告げた。

僕は嘘をついた、あと数週間の命なのに。

「どうなったの?」と妻がたずねた。

「白血病が復活したんだよ」

妻は泣くようでもなく、平静だった。

「なにか言い残すことはない?」

「なにもない」

「お墓に持っていくときの、花は何がいい?」

「ユリにして・・・」

痛み止めに麻薬を使い出していて、ラリっていて、

ビートルズの『ヘイジュード』状態なのだろう、

「悲しいことも考えによってはベターになる」

五七〇号室から五七五号室へ部屋が空いたので移動する。

五七〇号室では良いことが起こらないので場所をかえてほしいと希望したのが通った。

妻は移動しただけで吐いた。青黒い液体だった。


七月二十日

酸素マスクと、生命維持装置が付けられていて、

機械音がしている。

妻との会話のキャッチボールができなくなった。

麻薬の影響だ。

ひとこと話すと、しばらくは、とろとろとしている。

突然「オー」と言ったり、突然目が覚めて話せたりする。

目ははっきり見えないようだ。

「下痢が治らないね」と僕が言うと、

「それはストレスのせい?」

僕が答えないと「泣いているの?」と妻がたずねた。

「いや、俺は泣いていない」

僕は思った。

麻薬で痛みを抑えて、ラリッタ状態で逝ってしまうのか? 

一日おきの丸山ワクチンを打つ、奇跡を願うだけだ。


七月二十一日 

今日も雨。医者からあと二日はもたないと言われた。


七月二十二日  雨

妻の父母兄弟親戚が夜には大集合した。

結婚式以来、二十年ぶりに会う親戚も数名いた。

妻は麻薬漬けになっていて、ファミリーが集合していても反応しない。

医者に聞くと妻はわかっているというが、

酸素マスクをして眠り姫になってるとしか見えない。

一度だけだが、突然に目が覚めて、

タクトを振るような仕草をした。

好きな曲が妻の頭の中で流れたようだ。

妻は麻薬で上機嫌の表情になるが、

会話できる状態ではない。

今夜は、僕と妻の弟らと病院に泊まる。

泊まるといっても、ベッド付近にある椅子に座るか、

廊下の長椅子に移動したりするだけだ。

夜だった。

個室ではないので、病室内に瀕死の患者のあえぎ声が聞こえてきた。

数日で死ぬのを待つだけの臨終病棟だ。

男性の声は今も忘れない。痛々しそうに悲鳴をあげている声だ。

断末魔をあげている。早朝には男性の顔には白い布がかぶさっていた。


七月二十三日 雨

妻は眠っているだけで、まったく反応なし。

生命維持装置だけがビートしている。

今夜は交替で次女が単独で泊まる。


七月二十四日 雨 

徹夜の次女と午前中に交替した。

長女が来るまで反応のない妻を見守る。

今夜は長女一人で病院に泊まる。

娘二名は母の今の現実を見たくないのだ。

現実から逃げ出したいのだ。


七月二十五日 雨 

午前中は会社で、十三時から徹夜の長女と交代する。

妻は眠っているだけだった。


七月二十六日 晴れ 

午前中に妻の学友二名が見舞って帰っていった。

僕一人になったのは十一時過ぎ頃だった。

生命維持装置が終わりを告げた。

医者に知らせるとかけつけて、妻の脈をみた。

「十一時二十八分、ご臨終です」と言った。

とうとう「ユリの花」以外に、妻とは何も話せなかった。

麻薬づけで思考も言語能力もゼロだった。

最後の言葉は聞けなかった。

妻が死亡した直後に、僕は病院の天井を見上げた。

霊はのぼるという。僕は病院の天井に向かって、

手をあげてバイバイした。

看護師がやって来た。僕は数メートル、ベッドから離れた。

カーテンをオープンにしたままで、看護師は妻を全裸にした。

なつかしい日本人ばなれした長い脚、そして下半身。

看護師は消毒処理を開始した。

もう人間ではないのだろう。

下半身が個室ではない病室の中でさらけだされている。

僕は妻が看護師以外の他人に見られないように僕の体を隠した。

妻は寝巻きを着せられ、白い布で顔をカバーされた。


母からの警告


母に初めて妻を紹介したときに、妻は短命と見抜いていた。

妻を見て「この子は、弱かよ」と、母は僕に耳打ちした。

「わたしは母譲りで病気などしない」が妻の自慢だった。

健康な妻の母を引き継いでいると思っていたようだ。

たしかに妻は白血病以外では、一度も熱が出て寝こまなかった。

今思うと気合だけで生きていたのかもしれない。

僕の方は何度も寝込んだ。

妻が嫌う休日は昼までゴロゴロして寝ていた。

思えば、妻は産婦人科に通い、長女次女の出産で約一年。

白血病を加えると、約三年間は入院しているのだ。

妻が事務職として働き出した頃だった。

妻の「命が危ない」と母から何回も警告されていた。

日記に書いた母の言葉を、なぜ?スルーしていたのだろう。

悔いが残る。

妻は沈没タイプだった。妻に言った。

「なにかひとつだけ、とても大事なものが抜ける、

他はすべてに完璧なんだけど、大事を見失う。あなたはそのような女性だ。

逆に僕はすべてに抜けていて、不完全だけど、

ひとつの大事だけは見失わない」

沈没しようとする客船タイタニック号に、例えると、

妻は船上でバイオリンを弾いて、

まだ完璧に弾けていないと格闘して、

船とともに沈没してしまうのだ。


五十一歳で逝った妻の日記から


 三月二十四日の移植、二年後の二月六日。

二度目の移植の日となった。

なんでこんな病気に なったんだろう?

一生懸命 子供を 育てて 仕事もがんばって

夏に子宮とったら、少し仕事もセーブして自分を楽しもうとした矢先だった。

ただ ただ くやしい。

病気は人から希望とか 夢とか 生活の基礎となる仕事までを奪っていく。

病気して得たものはなんだろう?」



妻は無念だっただろう。

妻は白血病になり、何が原因なのか考えていた。

「このマンションに来てから、良いことがない」

と僕にこぼした。

僕が反対したのに、新しいマンションに目がくらんだのだ。

以前の会社の退職奨励金を使って、池袋にできたばかりのマンションを買った。

購入の目的は賃貸収入として、

将来は母の住居にする予定だった。

住居を変えると運も変わるという。

変わったおかげで、僕も自宅マンション付近で一生残る目撃をしてしまった。

反対しても、妻が意見をきかないのはお互い様だ。

きかないのは、僕の方が多かっただろう。

妻から「人の言うことをきかない頑固者」と、

よく言われていた。

目がくらんだのは僕の方だ。

退職奨励金に目がくらんだ。

妻が猛反対したのに、会社をやめてしまったのだ。

ぼくらの悲劇は退職金からかもしれない。

僕が妻を死に追い詰めた。僕が殺したんだ。

後悔が僕につきまとう。

目撃後にすぐ離婚していたらどうだったのだろうか?

いつも頭をよぎる。

妻の病気を防げただろうか?

別居していれば夫の何気ない言動によるストレスはなくなるし、

病気にならなかったかもしれない。


妻は手紙も残さなかった。

いつだったか思い出せないが、

「私が死んだら、新しい人を見つけて再婚してね」

と、妻が入院しているベッドで言った。


僕は泣けなかった。

妻が死んだときよりも裏切られたときには号泣して、

死にたいと思うほど辛かったからだ。

母がよく言っていた。人を傷つけると、必ず報いを受ける。

映画『ファミリー・ツリー』を観て、泣いてしまった。

映画は妻が事故で植物人間になる。

夫は突然主夫になり、暴走する娘に翻弄されていると、

娘は「ママは不倫していた」と言うのだ。

不倫すると必ず罰を受ける。

妻の遺言で生命維持装置を外すときの、夫の別れの言葉、

「さよなら 僕の妻 僕の苦しみ 僕の友」

僕には痛いほどわかる。


墓は埼玉の森林公園駅から無料送迎バスの出ている

千代田メモリアルランドに建立していた。

最初に墓に入るのが妻とは想像できなかった。

戒名は「釋尼響流」。まさに響き流れる女性だった。

母がなにを思ったか、福岡の菩提寺にある父とミユキも、

千代田メモリアルランドの墓に入れてくれと言い出した。

妻の葬式が終わると、僕は福岡へ行った。

福岡市に改葬許可申請書を出して改葬許可をえて、

遺骨の移動を行った。

菩提寺萬行寺は、地下鉄の祇園駅で下車する。

黒田の殿様から忠義であると名を授かった。

初代からの墓が全部ある。

先祖は豊臣秀吉の家来で、黒田官兵衛に従い福岡にきた。

家紋に男紋と女紋があるのを知ったのは中学のときだった。

母と僕は、墓守が墓を開けるのを見守った。

墓内に八つの骨壷があり、父とミユキの骨壷を取り出した。

妻が泣いたのを思い出した。

父が死んで納骨のときに、

母が妻にミユキの骨壷を見せたからだ。

ひざまずいて泣き崩れた妻の光景は忘れられない。

ミユキの骨壷だけは小さかった。

母が中を開けた。骨壷には水がたまっていた。

納骨して二十年になろうとしていた。

骨壷の中には水が入るらしい。

母はミユキの骨壷の水を見て言った。

「この水は尊いのよ」

母は水を手や頬に付けて、僕の手にも付けてくれた。

濁りのない清らかな水だった。

母が言った。「私の骨壷は父さんの隣に置いてね、

そのあとミユキだよ」

飛行機に骨壷を二つ持ち込んで機乗した。

初めてだった。

妻の納骨の日が来た。

妻と父とミユキの骨壷を、長女と運んだ。

「長女(長女)はミユキの生まれ変わりだよね」と、

僕は母にたずねた。

「そうだよ」

「ならば、赤い女の子は誰?」

以前に話した妻が入院したときに幽霊が出る、

赤い服の女の子が自分を深い海に引きずり込むと言った件だ。

ミユキとは流産した、最初の女の子で、

出てきた赤い服の女の子はミユキじゃない、

別だと思ったのだ。

「それも、ミユキたい」と母は言った。

「ミユキは一人じゃないの?」

「霊界では数で数えんとよ、ミユキは流産で死んだから、

霊界では一番いい特等席に座っとるよ」

流産してこの世に出ない霊は、霊界ではひとつの勲章になるのだろうか?

僕はたずねた。「年齢にすると、計算が合わないよ」

「霊界に年齢なんてなか。赤い子は、お迎えに来たとよ」

「不思議な世界なんだね」と、僕は母の言葉に、なぜか納得してしまった。

「二人の孫は元気しとるね?」と、母がたずねた。

「長女は二十三歳、次女は二十歳になったよ。

仲良く寝てるか、ゲームしている」

僕は六畳の部屋に引っ込み、二人はリビングと別の六畳を占有していた。

「二人産んで、正解たい。

あん人(妻)、どんげしても二人目を産む、

無事に産まれたら、命をかけて産んだと言っとった」

「ああ正解だね。

僕が死んだ後も、二人で助け合って生きてほしい。

しかし、子供のために長生きしてほしかったよ。

娘達が不憫で」

「女の子には父親より母親が一番大事やからね。

本当に二人はむぞうに(かわいそうに)」

母は続けて言った。

「孫二人は、むぞか(かわいそう)けど、

助け合って生きていくとたい。

あなたが心配たい。私があなたと暮らしたんが十七年。

あの人(妻)は十九年もあなたと暮らしとっとよ。

あなたの一番の理解者を亡くして残念たい。

あの人は派手で、贅沢で、あなただから養えたとよ。

でも、あんな品のよか女性と、結婚して良い夢を見たと思うしか、なかね」

僕は悲しくなる。娘らの後姿だ。

見るたびに申し訳ないと思ってしまう。

目撃の後に妻とすぐ離婚して、

妻を開放すれば、良かったのだろうか。

初めて体験した妻の不倫に錯乱してしまった。

僕の愚かな行動で、妻を死なせてしまった。

不倫されて錯乱するのは、風邪をひいたようなものなのだ。

経験して免疫ができた。

免疫ができて、不倫されても微動もしない自分がいる。

つまり妻の不倫を目撃しても、

妻を責めずに、妻と普通に生活ができる。

愚かだった僕を反省させるために、

僕は生かされているのだろうか。






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