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フェイドアウト断章  作者: 石藏拓(いしくらひらき)


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##05 「公園で、初めてよ」と妻は言った

##05 「公園で、初めてよ」と妻は言った

 

十二月二十七日

マンションの応接間に、冷たい沈黙が漂っていた。僕は硬いソファに腰掛け、目の前に座る妻の表情をじっと見つめていた。

前日の出来事について、詳しく聞き出そうとしているのだが、妻の顔はどこか遠くを見ているようで、僕の問いには答えず、微かに震える唇を噛んでいる。


「彼は…」と妻が、何かを言いかけて声を詰まらせた。「オーケストラの仲間なの。名前は…沢田マサ。中央オーケストラで、一緒に演奏しているのよ」


僕はその名前を頭の中で反芻した。沢田マサ。確かに聞き覚えがあったが、顔までは思い出せなかった。ただ、ふと浮かんだのは、公園のイメージだった。僕はそれが妙に気になり、思わず口にした。


「公園があるよね?」


妻は驚いたように顔を上げ、目を細めて僕を見つめた。「見たの?どうしてそんなことを…」


その問いに、僕は静かにうなずいた。「ああ、見てた。明治通りの小道から、二人で出てくるところを」


妻は身じろぎし、視線をそらした。僕の言葉は、計算された嘘だった。けれど、どうしても妻の本音を引き出したくて、つい芝居じみた言葉が口をついたのだ。


「ねえ…」妻は言い訳を探すように、手を組みながら呟いた。「初めてだったのよ、公園でキスするなんて」


僕は、その言葉に苛立ちを覚えた。初めて?何が初めてだ?その言葉の裏には、どれだけの真実が隠されているのだろうか。


「それで?そのあとどうしたんだ?」僕は冷たい声で問うた。

頭の中には、妻がその小道の先にあるラブホテル街へと向かう姿が鮮明に浮かんでいた。


妻はしばらく沈黙し、まるで言い訳を考えているかのように目を伏せていたが、やがて妻は突然涙目になって声を荒げた。

「ただ見ていただけなの? 

なぜ止めなかったの?

馬鹿なことをするな! 

目を覚ませ!って言って

わたしをぶってほしかった」

妻の演技の涙なのか、

ホテルに行ったと白状しない防御線なのだろうか?

「人の恋を邪魔するほど、野暮なことはないよ」と僕は言った。


僕には静観して観察するクセがあった。

大学生の頃、交際女性とクラブへ行った。

ドリンクバーに飲み物を取りに行って、

店のテーブルで女性を一人にした。

僕が飲み物を持って戻ろうとすると、

見知らぬ男がナンパに来ている。

女性がどんな応対をするのか興味があり、

隠れて観察してしまう。

応対ぶりで、どんな女性か判断できるかもしれない。

ある女性はナンパした男と仲良くなった。

逃げ出して僕を探しに来る女性もいた。

僕は妻に言った。

「僕は二人の恋を応援するよ。いつ出て行く?」

妻は「離婚する気はない。オケは退団する」と言った。

僕は言った。

「君の生きがいを奪い取る権利は僕にはない。

バイオリンは君の命だろう?」

予想外のようで、感謝に満ちた妻の顔があった。

妻はオケをやめないかわりに、男とは会わないと約束した。

言った言わないで、もめたくなかった。

僕は取り決め事項を妻にメールすると言った。

妻は了解して話し合いは終了した。


「十六時頃だったでしょうか、仕事の最中に電話がありました。

貴方の友人の母が亡くなられたそうで、今夜は夜遅く帰ると。

二十三時頃に電話があり、友人宅にいる。これから帰ると言いました。

僕は、めったにない行動をしました。

電話の後、ウチのマンションの一階に降りて、

外を眺めながら、貴方が帰宅するのを待ったのです。

一時間が経過したでしょうか。

風呂上りだったので洗い髪は芯から冷えていました。

午前零時前に、お二人の歩く光景が目に入りました。

いつもの帰り道とはまったく違う、

人があまり通らない暗い道から出て来ました。

窓辺の僕をお二人は見られて、突然にお二人は離れられた。

男性は歩いていた反対方向へ足早に去って行きました。

貴方は、なぜか僕の方へは来ませんでした。

つまり正面玄関から入らず、裏口から入って、

僕を無視して部屋に戻ってしまいました。

僕は男性を追いかけて顔を見てしまいました。

会ったことない顔でした。

僕は部屋に戻り、貴方を一階の応接間に呼び、

いろいろと質問をしました。

あまりのショックに気が動転していましたので、

貴方が述べた話を議事録にしました。

一.男性と貴方は恋人同志と、よくオケの人から言われている。

二.男性とは九月頃から始まった。

三.男性とは非常に気が合う。

四.離婚する気はないので、オケはやめる。

貴方に、お願いしました。

夫婦間では嘘はつかないでほしい。

ショックを受けた僕に、貴方から謝罪の一言もありません。

僕はあなたに目撃した日の携帯メールを見せてくれと言いました。

携帯電話を見せるのを拒否しました。

疑惑は増すばかりです。

男性との交際については嘘のないように

なんでも話してくださいと要求しました。

貴方は、わかったと言ってくれました」

夜に、二回目のメールを妻にした。

「今後の夫婦生活についてルールを作りました。

一.嘘はつかない。

二.原則、オケの飲み会での門限は

夜中の三時までとさせてください。

三.夫に無断で自宅に男を引き入れない。

夫も無断で女性を自宅に引き込みません。以上」


僕は、大きなカン違いをふたつもしていた。

妻が恋をしているのはわかっていた。

顔の表情で気づいて、

「最近、恋をしているね」と妻に言った。

10歳の長女は僕に忠告した。

「ママはラブラブだよ」

「誰と?」

「団長さん」

長女は妻が入浴しているときに携帯のメールを見たのだ。

妻はメールを長女に見られたと報告した。

団長といえば、結婚式にも来てくれた老人だ。

老人なので団長との肉体関係など信じられないと思った。

長女が言ったのは老人の団長でなくて、

新しい若い団長だった。

結婚十六年目にして、

初めて妻の身辺を調査するようになった。

妻に関して放し飼い状態だったと後悔した。

僕は妻を信じすぎていた。

二つ目のカン違いは、セックスレスではなかった。

定期的にあるので、安心していた。

不倫していても、夫と普通にあるようだ。


思えば次女のお産が一段落してオケを再開して以来、

妻は毎週土曜は早朝まで飲んで帰り、平日も何度か飲んで帰った。

完全に放し飼い状態だった。

妻の早朝帰りは目撃した十二月だけで六回あった。

僕は短い仕事日記や僕の仕事でのメールなど読み返したりして記憶をたどった。

妻にも尋ねて、十二月の妻午前様帰宅白書をまとめた。

夫のご乱行なら普通かもしれない。


十二月一日(土)はオケの練習日。

妻は練習が終わり、仲間で飲みに行って深夜二時頃帰った。

次の八日(土)のオケ練習日は、

水道橋のホールでの練習が終わり、巣鴨まで行って、

マサと二人で早朝まで飲んでいたと言った。

終電まで飲むのは普通だと言う。

自宅から巣鴨駅まで自転車で行って、

都営三田線に乗って練習先に出かけている。

マサと二人で飲む場所は、

妻が自宅まで自転車で帰れる駅周辺が多い。

池袋、板橋、大塚、巣鴨と自転車で帰宅できる範囲だ。

十五日(土)オケ練習日、妻は夜中に帰宅。

十八日は平日だが、妻は深夜帰りで、友人と忘年会だったと言った。

二十二日(土)オケの忘年会だった。

妻にストーカーしているオケメンバーが送っていくと、

しつこいので、マサと飲めずに、ストーカーを振り切ってきたと妻は言った。


二十六日(水)目撃の日

妻の手帳に「忘年会」と書かれている。

妻は大塚駅でマサと待ち合わせして

「寿し常」で飲んだという。

目撃したときに二人共に酔っていたので、

酒は飲んでいるだろう。


十二月三十日

二十六日の目撃で、妻とはぎくしゃくしていたが、

福岡県大牟田市の実家に帰省した。

妻は行きたい気持ちにはなれないと言った。

母と妻子が一緒に過ごすのは、ハワイに行って以来だった。

帰省は目撃以前に飛行機のチケットも購入していたので、

夫婦のもめごとは一時停戦となった。

母はめったに来てくれない妻を娘のようにかわいがり、

孫には無制限の愛情をそそいだ。

養父の死と共に一人で暮らす母を東京へ呼び寄せようと、

池袋にマンションを購入した。

母は東京へ行けば命を縮めるだけ、同年代の知り合いは、

東京で暮らせずに戻って来ていると言った。

池袋のマンションは他人に貸そうと思ったが、

できたばかりの新築の上池袋のマンションを見て、妻は引っ越すと言い出した。


正月(目撃の翌年)

三日まで、僕の実家に滞在していて、元日は家族で太宰府に初詣。

帰省は、妻のお気に入りだった。

料理も家事も、すべて母に任せて、

二階でバイオリンの練習に集中できたからだ。

コンサートマスターのプレッシャーと戦っていた。

娘たちは、大牟田駅にあるケンタッキーフライドチキンに毎日通った。

母は店を「かしわ屋」と呼んで、僕らを笑わせた。

鶏肉を「かしわ」と云う言い方は肉食禁止令による隠語だそうだ。

仏教の国教化で天武天皇の頃に肉食禁止令(牛馬鶏犬猿猴)が出た。

肉を草木に例えた隠語が生まれ、植物と偽って食べ続けたようだ。


夕食後は、あなたは酒が飲めないと妻が見下したのが気になり、

是正しようと思った。

新婚当時は僕も酒豪の妻に付き合った。

お気に入りの銘柄のアサヒのドライとサッポロの黒ラベルのロング缶を、

三缶ほど飲み干すと、僕はピンクに頬を染めたマシュマロマンになり、

おそろしく無口になる。

妻は絡まれることを警戒して自重しながら飲んでいる。

僕は飲まずにいられない、飲まないと一時停戦があやうくなるのだ。

ひたすらに飲んだ。

ガブ飲みする僕を妻は不安な目で見ていた。


一月六日(目撃の翌年)

僕らは実家から戻った。

「夫婦のルール」を妻にメールしたが、

まだ返事はなく、納得する謝罪もなかった。

正月休み最後の日で、妻はオケの初練習に出かけた。

オケのホームページ、妻の手帖、妻へのハガキなどを調査して、

「妻のラブストーリー」を作成しようと思った。

妻のタンスの引き出しでマサの名刺を見つけた。

マサは世界有数のC社で人事部勤務だった。

タイトルに長が付いていた。

妻から聞いた。マサは学生時代からのオケ仲間で、

妻と同じ年齢だった。

僕より付き合っている年数は二十年以上と長い。

過去にマサから求婚されたが、妻は断ったそうだ。

理由は、マサの家が複雑で、嫁に行くと苦労するからと妻は言った。

マサとの交際はずっとプラトニックだったと言った。

オケは東京都渋谷区を拠点に活動しているアマチュアオーケストラで、

団員は無報酬で演奏して、逆にコンサートチケットのノルマがある。

オケのホームページの活動報告を熟読していった。

マサの担当楽器は弦ではない。

妻とマサが緊密な仲になるきっかけはオケヘの復帰だ。

目撃の三年前。

長女は小学五年、次女は小学二年になり、

子育てが一段落して、妻はオケに十年ぶりに復帰した。

妻は再びコンサートマスターになりたかった。

マサは団長なので発言力は絶大で、妻はコンサートマスターに返り咲いた。

二人共、酒は大好きで、毎週末に行われる練習の後に飲みに行った。

妻が言うには、仲良くなるきっかけはマサの家庭不和の相談だったそうだ。

女性への相談は定石のナンパ方法だ。

マサは自分の妻との不和に悩んでいた。

妻の引き出しから僕は発見した。

マサの妻からの年賀状だった。

ひとこと、マサの妻から皮肉めいた内容が書かれていた。

「わたしたちの夫婦は、なんなのでしょう?」

マサの妻も不倫に気づいていたのだろうか?

妻は僕に言う「あなたは飲み仲間になれない、酒飲みじゃないのが残念ね」

酒は飲めるが、僕は酒がなくても一生暮らせる。

妻は違う。酒好きだ。

オケ仲間の友好、チームワークが大切。

コミュニケーションをはからないと良い音は出ないと言う。

団の友好に飲み会は必須のようだ。

一度だけ新婚当時に、オケの飲み会に参加した。

仲良く肩を寄せ合っていた男女の団員を見て、

妻は言った。

「あのカップル、不倫しているのよ」

オケは不倫の温床になるのだろうか?

コンサートマスターの妻は団の運営の責任者でもあるし、

酒好きなので、バイオリンと酒にのめり込んでいく。

毎週末のように練習の後に飲みに行って早朝帰りだった。

僕は妻がバイオリンに集中して

ライフワークを全うしている姿を見るのが好きだった。

夜中の四時頃に帰って来て、オケの飲み仲間(男たち)を

自宅に泊めると言い出した日もあった。

娘二人もいるし、僕は拒否した。

練習の合宿もあるし、男女は親しくなっていくだろう。

最初はマサとは喧嘩ばかりしていたそうだ。

喧嘩するほど仲は良くなっていくものだ。

ホームページにあるオケの活動を見ていくと、妻の恋愛の断片を拾えた。

社会教育会館音楽まつりだった。

妻の参加する弦楽奏をマサは指揮したとホームページに書かれている。

マサは指揮者ではない。

四月、お花見の会 

オケ仲間から妻とマサは夫婦と間違われている。

マサの子供が来ており、妻は子供の相手をして、

「団長の子供の母親はコンマス」

とホームページに書かれている。

同年八月、オケの仲間でキャンプに行った。

バーベキュー大会があり、妻は大会でマサと親しくなったと言った。

キャンプには娘二人を連れて参加している。


秋の定期演奏会

飲み会は盛り上がったと妻は言っていた。

だれでも人にはゴールデンエイジがあると思う。

妻にとって子育てが一段落した後のゴールデンエイジは、

秋の定期演奏会の日だったのではないだろうか。

チャイコフスキーのピアノコンツェルトでコンサートマスターを務めた。

長女は東京の御三家、つまり東大入学ベスト三の桜陰中学に進学した。

ピアノコンツェルトが終わって、指揮者と握手する妻の顔は知り合って

十五年間で一番輝いていた。

我が世の春、有頂天、人生で登り詰めた向こうには、

地獄の入口の十二月二十六日が待ちかまえていた。

夫だけが知らないが、他は誰でも知っているのが不倫の常識。

僕は妻のオケの仲間から間抜けな亭主だと思われていたのだろう。

不倫は当事者には天国であるだろう。

しかし配偶者や子供らには地獄となってしまう。

なんと皮肉だろう。妻の幸福は夫の不幸の上にあるのだ。

子供や配偶者を巻き込む地獄絵図となっていく。

発覚すれば当事者も地獄に落ちる。

妻とマサを自宅付近で目撃した日は、

夫婦崩壊の序章、

ドミノ崩しの最初のドミノが倒された日だった。

妻が練習でいない間に次女にマサの件を聞いた。

次女は「ウチに来ていたよ。学校が終わって帰るといた」と言った。

夕方になり、練習から帰ってきた妻を一階の応接間に呼んで、

マサを自宅に呼んだのを事情聴取した。

妻からの話では六月が最初で、八月も来たそうだ。

「自宅に招くなんて最低」と言った。

次に僕は言い放った。

「携帯電話のメールを見せてくれ。

じゃないと、奥さんに相談する」

妻はフリーズしてしまい、僕に携帯電話を渡した。

内容を見ると、僕が提案した「夫婦のルール」を、

マサに何通にもカットしてメールしていた。

几帳面に僕の提案文を見やすく

そろえているのに嫉妬してしまった。

妻とは別の女性がメールしていると錯覚してしまうほどだった。

マサとは密通しないという約束など一日も守れない。

簡単に裏切っている。

「僕は、君のようなとびきりの美人と結婚したのだから、

僕だけで独占できる訳がない。

四十六歳になるというのに、女優のように美貌を落とさないように努力して、

君は僕だけの女性でなく、世界中の男のものだからね。信じすぎていたよ。

君は結婚式で誓った約束を破ったね。

夫婦関係を破綻させる女性だとは思わなかった。

あなたの不倫は、僕だけでなく、二人の娘まで影響が及ぶんだよ。

二度と密通しないと約束したが平気で破ってしまう。

なぜバイオリンだけに専念できないんだ。

男にも専念するとは思わなかったよ」

妻は、黙って聞いていた。僕に謝罪もしない。

ただ涙がとめどなく流れていた。

僕が叱責し、妻を泣かせたのは十五年の夫婦生活で初めてだった。

夫婦喧嘩など一度もしなかった。

泣いていた妻は、しばらくして反撃に出た。

元カレについて話し出したのだ。

僕と結婚する前年に、五年結婚を待ってくれと言われた元カレがいたという。

元カレはマサではなかった。マサは妻と同じ年齢だ。

妻は元カレに五年は待てないと言ったそうだ。

今、元カレと別れたのを後悔していると妻は言った。

五年待ちというから、元カレは年下の医大生で、

長い浪人生活をして、やっと医学部に受かったのだろう。

妻の愛猫・影千代は元カレが拾って育てていた猫だった。

いっしょに元カレと暮らしていたのだろう。

僕がプロポーズしたときに、涙をこぼして「信じていいのね」と言った。

なにか過去にあると思っていたが、好きで別れた元カレがいたのだ。

就寝の時間となった。

妻は次女と居間で、長女と僕は別々の部屋で寝ていた。

妻は夜中の三時頃に、眠れないと僕の部屋のベッドにやって来た。

僕の機嫌をなおす秘策を知っていたのだろうか?


一月七日

帰省もあった長い正月休みが終わり、初仕事の日だった。

帰宅して二十二時になった頃だ。

妻はタバコを買いに行くという。

マサに電話してくるという顔だ。

妻の後ろ姿を見ても、100%、密会に行くと思った。

時間をおいて僕は妻を尾行した。

妻はコンビニに入ると、携帯で電話している。

となりの陳列棚から妻の電話内容を聞こうとして、

妻に見つかった。

「カンのいいヤツ」と思った。

マンションの応接間で今日もバトルが始まった。

妻は「夜の十時頃ではないと(マサに)電話できないの」と言うと、僕の行動が許せない、不愉快という顔をした。

平日の夜十時に連絡し合うようだ。

マサの行動が頭に入っている。

僕は「なぜ黙ってこっそり電話するんだ。

約束したじゃないか」と声を荒げてしまった。

今夜もバトルが始まり、夜中の二時までかかった。

「お互いの感性が合わなさすぎる」と妻は嘆く。

今思うと、僕は精神的におかしくなっていた。

僕が妻なら、嫌な夫だと思うだろう。

妻とマサの関係はどこまで進行しているのか、

気になって仕方がない僕がいた。

マサと愛情関係にあるのなら、早く僕と離婚すればいい。

妻はそんな関係じゃないと言う。

妻のマサとの連絡行動は裏切りにしか思えない。

僕はマサと妻の関係を知りたかった。


一月十日

妻からのメールを職場でみた。

「いろいろ思うことがあっても、考える時間がもてずにいるうちにメールが飛び込んできました。

まだ何もレスはしていません。

現状はとても悪いとしかいえず、探られっぱなしの日々です。

このあいだ電話したでしょ、

コンビニからそのとき夫はやはりあとをつけていました。

電話を切った瞬間夫は現れました。

もうげんなりしています。この先はむずかしい。

十五年を振り返って考えても、

いっしょにいる意味がある男なのかと考えている。

疑り深くて、嫉妬ぶかい、引き蘢りがちな・・・。

マサの案了解。少し考えてみます」


妻がマサにメールした内容を僕に転送してきたのだ。

「マサ」と親しい呼び名でメールしている。

二人の関係の親密さがうかがえた。

妻から二回目のメールがきた。

「私はこんな奴だとわかってもらうために、

覚悟のうえ、パパに送ってみました。

心の配分を聞かれたときに、なんと言おうかわかりませんでした。

みてのとおりに私はこういうメールを送りました。

こんなことまで話せる人です。

パパにはもう嘘をつけないです。

パパと話していて苦しいです。

苦しんでいるパパを見ているのがたまらなく苦しいです。

ずっと以前にあちらの夫婦喧嘩のメールを見せていただきました。

どう思うかと聞かれたので、どちらも非があるようで、

夫婦のことはわからないと言いました。

今回についてもきっとマサさんは、おなじことを言うでしょう。

誰だって、自分で解決しなくてはいけないんだ。

朝から、今日は一人になれるのでずっと考えていました。

十五年間、いろんなことがありましたね。

私がパパから離れ始めたのは、もう二年以上前になります。

少しずつですが遠のいていきました。

今の私の気持ちがパパに向いていないんだということが、

今回はっきりわかりました。

でも、離婚したいわけでもないということもはっきりわかりました。

パパが決めてください。これからのことを。

不思議と落ち着いています。

きっと、この先のことが見えないから落ち着いているんでしょう。

先が見えたら不安でしょうがないでしょう・・・

ただひとつ見えるのは、きっとパパは、私を許さないということです」

妻からの三回目のメール。

「これをしたら最後だと思いつつ、

送信したあとすぐにパパから電話がありました。

どうなるかと思いました。

『見たの?』とすぐ聞くと『なにが?』

いつものパパの声でした。

後悔がよぎりました。

それでも乗り越えるとパパが言った言葉を思い出しました。

越えた先はわからないけど

今まさに壁の前で止まっています」

妻からの四回目のメール。

「やはりメールだと冷静になれます。

二十六日はたしか十一時過ぎまで店にいました。

もう出ようかとマサやんがトイレにたったときに、

サオリに電話しました。

今年は忙しくていけそうもないから、

年があけたら線香をあげにいくと電話してたら、

大泣きしました。

ぐすぐす泣いているのを見て、

なにがあったんだと聞かれました。

歩きながらサオリのことなどを話していたら、

家に近づき話が終わらないので迂回しました。

その場の雰囲気でしょうか。

泣いていたからでしょうか。

公園に立ち寄ってキスしました。

初めてでした。 

もともと一線を越えることはしないと決めていましたが、

この時にすでに気持ちは越えてしまったのかもしれません。

パパが立っていたのを見て、

『終わった。やはり縁がない人って、どこまでもないんだ』と思いました。

私がパパとの縁についてこだわり続けているのはこういうところです。

縁あって結婚して、縁あって十五年いっしょにいて、毎日顔合わして。

このことをずっと暮れから考えていました。

さっき、家について自転車を止めたら、リサが帰ってきたところでした。

エレベーターホールにはリカが待っていました。

今日はリカが締め出されてました。

私にはこの子達が大人になるまで見守る責任があります。

そしてパパにも責任があると思います。

返事はここまで出ました。

マサやんにも、もうこういう付き合いはできないと、

こういう場を持てないと思っています。

これでやっと私もすっきりしました。

パパの心を壊してしまった。

でもパパの心のケアは私がするしかありません」

僕は一連のメールを読んで、妻は死んだと思った。

妻は死んだ、僕の心の中で妻は死んだんだ。

家庭内失恋だ。妻に失恋した。ふられたんだ。

終わった。いや終わったのではない。僕の妻は死んだんだ。




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