マリアの泉
上京して最初の下宿は、上石神井だった。
父が東京にいる知人に依頼して、勝手に部屋を決めていた。
新宿から特急で約一時間。
大牟田から博多に行くような感じだった。
知人に無断で、引っ越ししてしまった。
両親は僕を責めなかった。
僕は不動産屋を回って、
文京区にある和敬塾の近くの学生寮に住んだ。
早稲田は大学まで歩いて行けた。
三階建てのできたばかりの白い壁のアパートだった。
僕は三階にある八畳の洋室に住み、
セミダブルのベッドと丸いテーブルを購入していった。
窓を開けると、大聖堂や目白通りを隔てて椿山荘が見えた。
正式には東京カテドラル聖マリア大聖堂と言って、
カトリックの日本での総本山だった。
ルルドの洞窟が再現されている。
ナオコが聞いてきた。「ルルドって?」
「フランスにある洞窟だよ。
ベルナデット・スビルーという少女が洞窟に行くと、貴婦人が現れて、
洞窟の周辺をちょっと、掘ると泉が湧いてきた」
「日本昔話みたい」
「その泉の水を手にすると、難病が治ってしまう。
村の住人は、『マリアの泉』だと言って、各地から人々が訪れて、
お伊勢参りのようになっていくんだ」
「母が大家さんに電話で息子をよろしくと挨拶した。
母は面白いことを言うんだ」
「しかし勝手に引っ越しして、両親は何も言わなかったの?」とナオコが尋ねた。
「息子になにかあったのだろうと思ったのだろう。非難されなかったよ」
「理解ある両親ね。それでどんな面白いことを言うの?」
「母が、ウチは田舎なの?ってね」
「東京以外は全部田舎よね。東京人はそう言うわ」
「だよね。ウチは田舎じゃないですと母は言ったそうだ」