夏目漱石 三四郎 「迷える子羊」は、この文章から
三四郎は、
「広田先生や野々宮さんはさぞあとで
ぼくらを捜したでしょう」と
はじめて気がついたように言った。
美禰子はむしろ冷やかである。
「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
「迷子だから捜したでしょう」
と三四郎はやはり前説を主張した。
すると美禰子は、なお冷やかな調子で、
「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
「だれが? 広田先生がですか」
美禰子は答えなかった。
「野々宮さんがですか」
美禰子はやっぱり答えなかった。
「もう気分はよくなりましたか。
よくなったら、そろそろ帰りましょうか」
美禰子は三四郎を見た。
三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。
その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。
同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。
「迷子」
女は三四郎を見たままでこの一言ひとことを繰り返した。
三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子ストレイ・シープ――わかって?」
三四郎はこういう場合になると挨拶あいさつに困る男である。
咄嗟とっさの機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった
、こうすればよかったと後悔する。
といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、
さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。
だからただ黙っている。
そうして黙っていることがいかにも半間はんまであると自覚している。
迷える子ストレイ・シープという言葉はわかったようでもある。
またわからないようでもある。
わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。
三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。
すると女は急にまじめになった。
「私そんなに生意気に見えますか」
その調子には弁解の心持ちがある。
三四郎は意外の感に打たれた。
今までは霧の中にいた。
霧が晴れればいいと思っていた。
この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。
晴れたのが恨めしい気がする。
三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、
澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。
けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻もどせるものではないと思った。
女は卒然として、
「じゃ、もう帰りましょう」と言った。
厭味いやみのある言い方ではなかった。
ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調くちょうであった。
空はまた変ってきた。
風が遠くから吹いてくる。
広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。
草からあがる地息じいきでからだは冷えていた。
気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。
自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。
美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。
「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。
冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」
「ええ、すっかり直りました」と明らかに答えたが、
にわかに立ち上がった。
立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、
「迷える子ストレイ・シープ」と長く引っ張って言った。
三四郎はむろん答えなかった。
美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、
道があるなら、あの唐辛子のそばを通って行きたいという。
二人は、その見当へ歩いて行った。
藁葺わらぶきのうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。
その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。
「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」
女は片頬かたほおで笑った。そうして問い返した。
「なぜお聞きになるの」
三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘ぬかるみがあった。
四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。
そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。
三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。
そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。
石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。
三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。
手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。
三四郎は手を引っ込めた。
すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、
左の足でひらりとこちら側へ渡った。
あまりに下駄げたをよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。
のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子ストレイ・シープ」と美禰子が口の内で言った。
三四郎はその呼吸いきを感ずることができた。