改題「グラス・オニオン」 第一章 ナレオ資料
「ケイコさん、ナレオ資料、これ?」
「はい! そうです」
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終戦直後にアメリカから最初に入ってきた音楽は、
ハワイアン音楽で、音楽に飢えていた多くの若者が飛びつきました。
日本でたちまち過熱し、灰田勝彦や浜口庫之助、
バッキー白片、大橋節夫などのミュージシャンにより大ブームを起こしたものです。
私が早稲田に入学した64年当時は、
ナレオハワイアンズのレギュラー・メンバーといったら花形的存在。
全国から歌やハワイアンが好きな人たちがナレオ目指していたのでした。
レギュラー兼バンドボーイとして全国ツアーに参加。
3年生になるとスケジュールや資金を管理するプレイング・マネジャーを担当し、
年間120回ものステージを全国で展開。
7割がコンサート、3割がダンスパーティー、テレビ・ラジオにも年間に10回近くは出演していました。
3年間の演奏旅行で訪問した都市は実に延べ120ヶ所を越えていました。
すべてが、何をしても楽しかった演奏旅行。
春・夏の休みには、
いつも、早稲田モダンジャズ・グループや早稲田ハイソサエティ・オーケストラ、
早稲田ニューオルリンズ・ジャズクラブの
メンバー達と全国をツアーしていました。
当時のこれらの仲間には、
同学年では、長年NYで活躍し、日本を代表するベーシスト鈴木良雄君(当時、ピアノ)、
新宿でジャズクラブ「J」のオーナーをやっている幸田稔君、
1-2級下にはサブマネジャーをやっていた森田正義君(現タモリ)、
在学中に渡辺貞夫クワルテットに参加していた、ギターの増尾好秋君、
レコード・ディレクターとして名をはせたソニー・レコードの伊藤八十八君、
脚本家になった武田淳一君(ベース&マネージャー)などがいました。
ナレオのほうは、ナレオハワイアンズの創始者的な存在のスティールギター奏者で、
白石信(白石信とナレオハワイアンズ)さん、
カメラマンの浅井慎平、
アナウンサーでは露木茂を始め、小林大輔、松倉悦郎、(以上フジテレビ)、
柏村武昭(元防衛庁政務官、参議院議員)、宮川俊二、梶原しげる(当時、梶原茂)、
テレビ・映画音楽などの作曲家、本間勇輔、
CMディレクターの川崎徹、作家の服部真澄などが輩出されています。
思い出に残るコンサートといえば、
今で言う若い人にはなじみがないかもしれませんが、
その頃の御三家の一翼を担っていた、
西郷輝彦と一緒のステージに上がったことでした。
人気歌手と学生バンドが何故共演することになったかというと、
当時、西郷輝彦はフランク・シナトラに続く高人気でハワイ出身の歌手
日本テレビに請われ90分番組の出演が決まったのでした。
当時、新しかった渋谷公会堂での録画中継番組で、特別の扱いを受け感激しました。
信じられない話ですが、つい先日、全く偶然にも、
このときナレオとの窓口役をやっておられた日本テレビ、ディレクターの花見さんと、
38年振りに渋谷の行きつけのカラオケ・バーでお会いしました。
実に不思議な再会でした。
また、いろいろな大学の学園祭に招かれましたが、とりわけ思い出深いのは、
66年のビートルズの武道館公演の翌年、
同じ武道館で演奏できたことです。




