欲望と孤独の肖像──林芙美子『浮雲』とモーパッサン『ベラミ』をめぐって
欲望と孤独の肖像──林芙美子『浮雲』とモーパッサン『ベラミ』をめぐって
林芙美子の『浮雲』とモーパッサンの『ベラミ』。一見すると、時代も国も異なる二つの小説は、男女それぞれの野心と孤独を描いた作品として、驚くほど響き合う。
『浮雲』のゆき子は、戦中・戦後という激動の時代にあって、愛と生存のはざまで揺れる女である。愛した男・富岡に裏切られ、なおも彼を求めてしまう彼女の姿には、敗戦直後の日本の漂流する心が重なる。社会が崩壊し、価値が反転する中で、ゆき子は自らの生をつなぎとめるように愛に執着する。その執着は哀しくも烈しく、やがて自己破壊的な情念となって彼女を呑みこむ。
一方、『ベラミ』のジョルジュ・デュロワは、愛を手段とし、社会的上昇を目的とする男である。彼は女性を利用して新聞社や政界の頂点にのし上がっていく。モーパッサンは、彼の虚飾と野望を通して、19世紀フランス社会の腐敗と俗悪を鮮やかに暴いた。デュロワにとって愛は欲望の道具であり、倫理や誠実さは成功の妨げにすぎない。
『浮雲』のゆき子と『ベラミ』のデュロワ。二人は正反対のようでいて、どちらも「生きるために愛を使わざるを得なかった存在」である。ゆき子にとって愛は救いへの唯一の道であり、デュロワにとっては出世の梯子だった。だが、どちらの道も孤独に通じている。ゆき子は愛に敗れ、デュロワは成功の果てに虚無を抱く。
林芙美子は『浮雲』で「生きることの悲哀」を、モーパッサンは『ベラミ』で「生き延びることの卑俗さ」を描いた。前者は愛の純粋さを失う痛みを、後者は愛を利用する冷笑を見つめる。だが、その底に流れるのは、どちらも「生への渇き」という普遍的なテーマである。
ゆき子は敗戦日本の“浮雲”であり、デュロワは近代資本主義の“浮雲”である。どちらも定まる場所を持たず、社会の風に流されながら、なお人間的な熱を失わない。林芙美子もモーパッサンも、その哀しみを突き放すことなく、むしろ愛惜をもって描き切った。
『浮雲』と『ベラミ』は、時代も性も違えど、どちらも「欲望の果てに残る孤独」の文学である。そこに、近代という時代が抱えた根源的な問い――人は何を支えに生きるのか――が静かに浮かび上がってくる。




