第9話 王命
王命が下る朝は、驚くほど静かだった。
昨日のうちに行き先は聞かされている。
北方辺境、フェルド領。
それでも「正式な命令」という形になると、嫌でも現実味が増した。
レオンは朝の薄い光の中で、重ねられた衣服の袖を整えた。
王族用の正装だが、兄たちのものより一段地味だ。濃紺に灰青の刺繍。華やかさより、王家の末席らしい無難さが先に立つ。
「お顔が硬いですね、殿下」
後ろからセリスが言った。
「王命を楽しみにする趣味はない」
「結構です。楽しそうにされても困ります」
相変わらず遠慮がない。
だが、その方が今は楽だった。
謁見の間ほど大げさではない、小規模な儀礼室に通される。
壁際には書記官と近侍が数人。
国王の前には、既に命令書が用意されていた。
父王は椅子へ深くもたれず、いつも通りの温度で座っている。
その右後ろには第一王子エドガー。
第二王子ガレスの姿はない。
「レオン・アルヴェイン」
呼ばれ、前へ出る。
「汝に、北方辺境フェルド領への赴任を命ずる」
短い。
余計な飾りもない。
書記官が文言を読み上げる。
地方行政の実地経験。
王族としての見聞。
王家の名代としての視察補佐。
どれも耳触りは悪くない。
だが、言葉が整うほど実態との距離が目につく。
拒否できない。
最初から分かっていたことだ。
「拝命いたします」
そう答えると、国王は小さく頷いただけだった。
息子へ何かを託す目ではない。
処理済みの案件に印をつける時の目に近い。
命令書が手渡される。
ずしりと重いわけではない。
紙数も多くない。
それなのに、妙に重く感じた。
「補佐はセリス・オルディアが務める」
「承知しております」
セリスが一歩前へ出て答える。
声には揺れがない。
この女は、自分がどこへ送られると知ってもたぶん同じ声を出すだろう。
儀礼はそれで終わった。
本当に、それだけだった。
気をつけろ、もなければ、期待している、もない。
父王の視線は既に別の書面へ向かっている。
自分の件は、もう終わったのだ。
退出しかけたところで、エドガーが静かに声をかけてきた。
「北方は王都ほど甘くない」
レオンは足を止める。
「存じています」
「そうか。ならいい」
正しそうに聞こえる言い方だった。
励ましにも忠告にも取れる。
だが実際には、どちらでもないのだろう。
お前が失敗しても困らないが、王家の名だけは汚すな。
たぶん、その程度の意味だ。
レオンが一礼すると、エドガーはもうこちらに関心を残していなかった。
部屋を出る。
扉が閉まる。
その瞬間、ようやく肺の奥の空気が動いた気がした。
回廊には何人かの近侍や女官がいた。
皆、礼は取る。
けれど視線の奥には、妙な軽さがあった。
第三王子が北へ行く。
それで王宮が少し静かになる。
そんな了解が、もう空気になっている。
前を通り過ぎた若い文官が、小さく同僚へ言った。
「これで、しばらくは――」
最後までは聞こえなかった。
いや、聞かせないようにしたのだろう。
十分だった。
「これで静かになる」
たぶん、そういう意味だ。
レオンは苦くもなく思う。
王宮にとって自分は、騒ぎの種と呼ぶほど大きくもない。
ただ、そこにいると少しだけ配置が悪くなる駒なのだ。
「気に留める価値もありません」
隣を歩くセリスが言った。
「俺、何も言ってないけど」
「言わなくても分かる顔でした」
「便利だな、その観察眼」
「便利なのは殿下にではありません。仕事にです」
淡々としている。
そして、正しい。
レオンは命令書の端を軽く指で叩いた。
「これで終わりかと思ったけど」
「始まりです」
セリスは即答した。
「王命が出た以上、ここからは準備ではなく実務になります。知っておくべきことも増えます」
「例えば」
セリスは一拍だけ置いた。
「フェルド領そのものの事情です。土地の問題だけではなく、そこにいる人間のことも」
人間。
その言い方が少しだけ引っかかった。
ただ貧しい領地、荒れた辺境、というだけではないらしい。
「殿下は行き先を知りました。次は、何に巻き込まれるかを知る番です」
淡々とした口調のまま、セリスはそう告げた。
レオンは命令書を折らずに持ち直した。
王命は拒否できない。
ならせめて、何が待っているかくらいは先に知っておくべきだ。
「分かった。聞くよ」
「では部屋へ戻りましょう」
セリスが歩き出す。
その背を見ながら、レオンは小さく息を吐いた。
王命は下った。
逃げ道は消えた。
次に来るのは、北方そのものの現実だ。
それがどれほど面倒なものか。
まだ、彼は半分も知らなかった。




