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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第2話 知らない天井と小さな身体

 最初に見えたのは、白い布だった。


 白い。

 けれど病院の天井ではない。

 均一な板でも蛍光灯でもなく、淡い模様の入った天蓋布が視界の上で静かに揺れている。木の梁まで見えた。


 修司はしばらく、それをただ見ていた。


 頭が回らない。

 喉がひどく乾いている。

 体は重いのに、妙に軽いような、噛み合わない感覚がある。


 扉が開く音がした。


「殿下……! お気づきになりましたか」


 女の声だ。

 闇の中で聞いた声に似ている。


 そちらへ顔を向けると、見知らぬ若い女が立っていた。

 黒と白を基調にした装い。エプロンドレスに近いが、布地も仕立てももっと上等で、どこか古風だ。侍女、と呼ぶのがいちばん近い。


 そんな単語が自然に浮かんだことに、修司はわずかに眉を寄せた。


「すぐにお水をお持ちします」


 女は慣れた手つきで銀の水差しを持ち上げ、杯へ水を注いだ。

 銀。

 木の机。

 厚いカーテン。

 壁の織物。

 ベッド脇に置かれた燭台。


 どれも現代日本の病室にはないものばかりだ。


 杯を差し出され、修司は反射的に手を伸ばした。

 そこで、動きが止まる。


 手が、小さい。


 骨ばった三十一歳の男の手ではない。

 指が細い。手首が軽い。白くて、まだ成長しきっていない少年の手だ。


 喉の奥がひゅっと鳴った。


「……何だ、これ」


 出た声まで違った。

 低くない。若い。

 変声期を越えて間もない少年みたいな声だった。


 侍女が不安そうに目を伏せる。


「お熱が二日続いておりましたので、記憶が混乱なさっていても――」


「鏡」


「はい?」


「鏡、ある?」


 侍女は一瞬きょとんとしたあと、部屋の奥を示した。

 大きな姿見が置いてある。磨かれた木枠の、王侯貴族の部屋にでもありそうな立派な鏡だ。


 修司は寝台から降りた。

 床へ足をつけた瞬間、位置の低さにまた違和感が走る。

 重心が違う。骨格が違う。体の幅も、力の入り方も違う。


 数歩だけふらつきながら鏡の前へ行く。


 そこにいたのは、知らない少年だった。


 黒に近い、くすんだ金髪。

 青灰色の目。

 細身で、まだ大人になりきっていない体。

 顔立ちは整っているのに、妙に華が薄い。目を引く美形というより、静かで目立たない美形だ。


 修司は鏡へ手を伸ばした。

 向こうの少年も同じように触れる。


「……誰だよ」


 当然、返事はない。


 侍女が控えめに口を開く。


「レオン殿下……本当に、お分かりになりませんか?」


 レオン。


 その名前に、胸の奥が妙にざわついた。

 聞いたことがあるような、ないような、曖昧な既視感。

 だがそれより、後ろについた“殿下”が重い。


 殿下。

 つまり、王族。


「冗談だろ……」


 夢なら早く覚めてくれと思った。

 けれど鏡の冷たさは現実で、裸足の床も、喉の渇きも、心臓の速さも全部本物だった。


 侍女が少しだけ声を和らげる。


「二日前、殿下は急にお倒れになりました。高熱が続き、医師も心配しておりましたが……今、目を覚ましてくださって本当に」


 安堵している。

 少なくとも、この女は本気で心配していたらしい。


 修司は額へ手を当てた。熱はもう引いているようだが、頭の中がまだ妙にぐらつく。


「……少し、一人にしてくれる?」


「ですが」


「呼んだら来てほしい。今は、ちょっと整理したい」


 侍女は迷ったあと、丁寧に一礼した。


「承知いたしました。何かございましたら、すぐに。レオン殿下」


 扉が閉まる。


 静かになった部屋で、修司はもう一度ゆっくり周囲を見渡した。


 天蓋付きの寝台。

 厚手の絨毯。

 磨かれた家具。

 壁に掛かった王家らしき紋章の織物。

 机の上には封蝋のされた書簡。

 片隅には飾りだけでなく実用品として置かれた剣まである。


 王族の部屋。

 少なくとも、かなり身分の高い誰かの部屋だ。


 修司は窓際まで歩いた。

 カーテンの隙間から外をのぞく。


 広い中庭。

 白い石造りの建物。

 整えられた庭園。

 訓練場らしき広場。

 遠くで槍を持った兵が動いている。


 日本じゃない。

 それどころか、そもそも現代ですらない気がした。


 死んだのか。


 その考えが、ようやく形になった。


 あのオフィスで。

 机に突っ伏して、そのまま。

 それで気がついたら、見知らぬ王宮のような場所で、見知らぬ少年になっていた。


 転生。


 あまりに安っぽい単語だと思ったが、今の状況を説明するにはそれがいちばん近い。


「笑えないな……」


 呟いた直後、頭の奥へ鈍い痛みが走った。


「っ……!」


 目の奥を針で刺されたような痛みだった。

 修司――いや、もうその呼び名すら不安定だが――は思わず頭を押さえる。


 断片的な映像が流れ込んでくる。


 高い天井の廊下。

 長い食卓。

 近寄りがたい金髪の青年。

 木剣を振るう大柄な少年。

 遠巻きの視線。

 そして、自分へ向けられる、薄い薄い無関心。


 他人の記憶だ。

 そう分かるのに、同時に自分の内側から湧いてくる感覚でもある。


 レオン。

 その名前の持ち主の記憶。


 この体には、もともとの人生がある。

 それが今、扉越しにこちらへ流れ込もうとしていた。


 修司は荒い呼吸を整えながら、鏡の中の少年を見た。


 自分ではない。

 でも、もう他人とも言い切れない。


 そして確かなのは一つだけだった。


 自分はもう、遠野修司ではない。

 この世界では、レオンとして生きるしかない。


 その現実を認めかけた時、扉の向こうで誰かの足音が止まった。

 低い声で、女官へ何かを告げる声が聞こえる。


 その言葉の意味ははっきり聞き取れなかったが、直後、聞き慣れない肩書きだけが耳に残った。


 ――第三王子殿下に、だ。


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