第2話 知らない天井と小さな身体
最初に見えたのは、白い布だった。
白い。
けれど病院の天井ではない。
均一な板でも蛍光灯でもなく、淡い模様の入った天蓋布が視界の上で静かに揺れている。木の梁まで見えた。
修司はしばらく、それをただ見ていた。
頭が回らない。
喉がひどく乾いている。
体は重いのに、妙に軽いような、噛み合わない感覚がある。
扉が開く音がした。
「殿下……! お気づきになりましたか」
女の声だ。
闇の中で聞いた声に似ている。
そちらへ顔を向けると、見知らぬ若い女が立っていた。
黒と白を基調にした装い。エプロンドレスに近いが、布地も仕立てももっと上等で、どこか古風だ。侍女、と呼ぶのがいちばん近い。
そんな単語が自然に浮かんだことに、修司はわずかに眉を寄せた。
「すぐにお水をお持ちします」
女は慣れた手つきで銀の水差しを持ち上げ、杯へ水を注いだ。
銀。
木の机。
厚いカーテン。
壁の織物。
ベッド脇に置かれた燭台。
どれも現代日本の病室にはないものばかりだ。
杯を差し出され、修司は反射的に手を伸ばした。
そこで、動きが止まる。
手が、小さい。
骨ばった三十一歳の男の手ではない。
指が細い。手首が軽い。白くて、まだ成長しきっていない少年の手だ。
喉の奥がひゅっと鳴った。
「……何だ、これ」
出た声まで違った。
低くない。若い。
変声期を越えて間もない少年みたいな声だった。
侍女が不安そうに目を伏せる。
「お熱が二日続いておりましたので、記憶が混乱なさっていても――」
「鏡」
「はい?」
「鏡、ある?」
侍女は一瞬きょとんとしたあと、部屋の奥を示した。
大きな姿見が置いてある。磨かれた木枠の、王侯貴族の部屋にでもありそうな立派な鏡だ。
修司は寝台から降りた。
床へ足をつけた瞬間、位置の低さにまた違和感が走る。
重心が違う。骨格が違う。体の幅も、力の入り方も違う。
数歩だけふらつきながら鏡の前へ行く。
そこにいたのは、知らない少年だった。
黒に近い、くすんだ金髪。
青灰色の目。
細身で、まだ大人になりきっていない体。
顔立ちは整っているのに、妙に華が薄い。目を引く美形というより、静かで目立たない美形だ。
修司は鏡へ手を伸ばした。
向こうの少年も同じように触れる。
「……誰だよ」
当然、返事はない。
侍女が控えめに口を開く。
「レオン殿下……本当に、お分かりになりませんか?」
レオン。
その名前に、胸の奥が妙にざわついた。
聞いたことがあるような、ないような、曖昧な既視感。
だがそれより、後ろについた“殿下”が重い。
殿下。
つまり、王族。
「冗談だろ……」
夢なら早く覚めてくれと思った。
けれど鏡の冷たさは現実で、裸足の床も、喉の渇きも、心臓の速さも全部本物だった。
侍女が少しだけ声を和らげる。
「二日前、殿下は急にお倒れになりました。高熱が続き、医師も心配しておりましたが……今、目を覚ましてくださって本当に」
安堵している。
少なくとも、この女は本気で心配していたらしい。
修司は額へ手を当てた。熱はもう引いているようだが、頭の中がまだ妙にぐらつく。
「……少し、一人にしてくれる?」
「ですが」
「呼んだら来てほしい。今は、ちょっと整理したい」
侍女は迷ったあと、丁寧に一礼した。
「承知いたしました。何かございましたら、すぐに。レオン殿下」
扉が閉まる。
静かになった部屋で、修司はもう一度ゆっくり周囲を見渡した。
天蓋付きの寝台。
厚手の絨毯。
磨かれた家具。
壁に掛かった王家らしき紋章の織物。
机の上には封蝋のされた書簡。
片隅には飾りだけでなく実用品として置かれた剣まである。
王族の部屋。
少なくとも、かなり身分の高い誰かの部屋だ。
修司は窓際まで歩いた。
カーテンの隙間から外をのぞく。
広い中庭。
白い石造りの建物。
整えられた庭園。
訓練場らしき広場。
遠くで槍を持った兵が動いている。
日本じゃない。
それどころか、そもそも現代ですらない気がした。
死んだのか。
その考えが、ようやく形になった。
あのオフィスで。
机に突っ伏して、そのまま。
それで気がついたら、見知らぬ王宮のような場所で、見知らぬ少年になっていた。
転生。
あまりに安っぽい単語だと思ったが、今の状況を説明するにはそれがいちばん近い。
「笑えないな……」
呟いた直後、頭の奥へ鈍い痛みが走った。
「っ……!」
目の奥を針で刺されたような痛みだった。
修司――いや、もうその呼び名すら不安定だが――は思わず頭を押さえる。
断片的な映像が流れ込んでくる。
高い天井の廊下。
長い食卓。
近寄りがたい金髪の青年。
木剣を振るう大柄な少年。
遠巻きの視線。
そして、自分へ向けられる、薄い薄い無関心。
他人の記憶だ。
そう分かるのに、同時に自分の内側から湧いてくる感覚でもある。
レオン。
その名前の持ち主の記憶。
この体には、もともとの人生がある。
それが今、扉越しにこちらへ流れ込もうとしていた。
修司は荒い呼吸を整えながら、鏡の中の少年を見た。
自分ではない。
でも、もう他人とも言い切れない。
そして確かなのは一つだけだった。
自分はもう、遠野修司ではない。
この世界では、レオンとして生きるしかない。
その現実を認めかけた時、扉の向こうで誰かの足音が止まった。
低い声で、女官へ何かを告げる声が聞こえる。
その言葉の意味ははっきり聞き取れなかったが、直後、聞き慣れない肩書きだけが耳に残った。
――第三王子殿下に、だ。




