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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第1話 終電の向こう側

 遠野修司は、壁の時計を見ないふりをしていた。


 見たところで、帰れるわけじゃない。

 そう分かっている時の時計ほど腹立たしいものはない。


 二十三時四十六分。

 終電を気にするには遅く、徹夜を覚悟するにはまだ中途半端な時刻だった。


 オフィスの蛍光灯は半分以上ついたままなのに、空気だけがやけに薄い。

 皆、椅子に座っている。

 座ってはいるが、もうまともに働いているのかどうか怪しい顔をしていた。


 修司の前のモニターには、売上表と原価表と請求一覧が並んでいる。

 今月分の集計。いや、正確には集計のやり直しのやり直しだ。


 昼に出した数字へ別部署が差し戻し。

 夕方に直した表へ課長が追記指示。

 そのうえで、さっき会議から戻ってきた部長が「朝一で役員へ出すから、念のため全部見直しといて」と言った。


 念のため。


 その四文字は大抵、責任の所在が曖昧な時に使われる。

 何かあったら最後に触った人間が悪い、という意味だ。


 修司はキーボードへ指を置いたまま、乾いた目を数度しばたいた。

 コーヒーはとっくに冷めている。

 マグの底に残った黒い液体は、もう飲み物というより罰ゲームの液体みたいだった。


「遠野くん、まだ大丈夫?」


 顔を上げると、課長が紙を片手に立っていた。

 聞き方は優しい。

 でも、この時間にその声色で近づいてくる人間が、ろくな用件を持っていたためしがない。


「はい」


「悪いね。これ、ここの原価率だけど、去年基準じゃなくて今期の整理方式で見た方がいいかもしれない。役員が細かいから」


 言いながら、課長は修司の返事を待たずに資料を机へ置いた。

 断る余地が最初から存在しない手つきだった。


「……分かりました」


「助かるよ。遠野くんなら丁寧だし」


 丁寧。

 便利に使える、の言い換えだ。


 課長が去る。

 自動ドアが開いて閉まる音が、やけに遠く聞こえた。


 修司は紙を見下ろした。

 細かな修正指示。

 他人が曖昧に残した穴を、最後に誰かが埋める必要がある。その役がだいたい自分になる。


 別に、正義感で動いているわけじゃない。

 ただ、雑な仕事のしわ寄せで、下の誰かが潰れるのを見ているのが嫌なだけだ。


 斜め向かいの席から、小さく紙をめくる音がした。

 今年入ったばかりの高橋が、半泣きみたいな顔で請求一覧を見ている。さっきから電話を受けるたび、肩が縮んでいた。


 修司は一瞬だけ迷ってから、声をかけた。


「高橋さん」


「は、はいっ」


「その一覧、元データ残してる?」


「え……あ、途中のは……たぶん……」


 たぶん、の時点でだいたい詰んでいる。


 高橋は明らかに限界だった。

 手元の数字を追っているふりをしながら、もう何が正しいのか分からなくなっている顔だ。


 修司は自分の画面へ請求一覧を呼び出した。


「こっちで一回合わせる。君は日報だけ出して、今日は上がった方がいい」


「でも、それ……遠野さんの分が」


「二人で崩したら余計に面倒になるから。次から途中保存だけは増やして」


 高橋は何度も頭を下げた。


「すみません……ありがとうございます」


「謝らなくていいよ」


 そう言ってから、修司は自分で少し嫌になった。

 こういうことをやるから、仕事がまた寄ってくる。


 でも、真面目にやっている人間が、雑な上の都合で壊れるのを見るのはもっと嫌だった。


 数字を追う。

 メールを遡る。

 更新履歴を拾う。

 誰がどこを触ったかを探し、表の継ぎ目を縫い直す。


 こういう作業自体は嫌いじゃない。

 バラバラになったものを順番に並べて、破綻しかけた流れを立て直す。

 自分はたぶん、その手の実務には向いている。


 ただ、向いていることと、壊れないことは別だ。


 零時を回るころには、オフィスはほとんど無人だった。

 換気の低い音だけが残っている。

 誰かの置き忘れたスマホが一度だけ震え、すぐに止んだ。


 修司は椅子へ深く背中を預けた。

 目の奥が熱い。

 肩と首がずっしり重い。

 まぶたの裏に、表の数字が焼きついて離れない。


 今月が終わったら少し休もう。

 次の無茶振りは断ろう。

 せめて帰れない日は帰れないって言おう。


 そう思うたび、翌日には別の締切が降ってくる。


 画面の数字が少し揺れた。


 修司は目を閉じて、数を数えてから開いた。

 それでも焦点が合うまで少し時間がかかる。


 まずいな、と他人事みたいに思った。


 本気でまずい時、人は意外と冷静になる。

 顔を洗った方がいい。

 水を飲むべきだ。

 立ち上がって少し歩いた方がいい。


 分かっているのに、体が椅子から離れなかった。

 背中に鉛でも入っているみたいだった。


 それでも、もう一度だけ表を見る。

 課長の差し込み指示は反映した。

 高橋の請求一覧も整えた。

 朝一で送るメールの下書きも作った。

 ここまでやれば、少なくとも朝は回る。


 そこまで確認した瞬間、張っていた糸がふっと切れた。


 視界が暗くなる。

 蛍光灯の白が、急に遠い。


 ああ、終電どころじゃないな。


 どうでもいいことが頭に浮かんだ。

 次の瞬間には、机へ突っ伏す形で意識が落ちていた。


 硬いはずの天板の感触もすぐに消える。

 冷えた空気も、換気の音も、全部闇へ沈んでいく。


 その暗がりの底で、誰かの声がした。


 若い女の声だった。

 慌てたような、けれど聞き慣れない発音で。


「――レオン殿下?」



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