ある朝の記録
2042年。
その年を境に、新生児の産声は確認されなくなった。
心拍、呼吸、体温。
生命兆候はいずれも正常。
臓器や脳にも、明確な異常は見つからない。
それでも、意識だけが芽生えなかった。
世界各地の研究機関が原因の解明にあたったが、結論は出ていない。
理由は特定されていない。
三十年のあいだ、産声は確認されなかった。
2072年、ひとりの男児が産声を上げた。
その後、新たな報告はない。
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2087年。
朝。
「ヤマトー、ご飯できてるから。早く起きなさいよー」
台所の方から、祖母の声がする。
味噌汁の匂いが、廊下をゆっくり流れてくる。
目をこすりながら布団を出て、洗面所の前を通り、居間へ向かった。
食卓に座るころには、茶碗と汁椀が並び、湯気が立っている。
白いご飯。
味噌汁。
小皿に漬物と、卵焼きが少し。
いつもと同じ並び。
「いただきます」
小さく言って、箸を取る。
味わう間もなく口に運び、噛んで、飲み込む。
茶碗が空になる。
汁を飲み干す。
「もういいの?」
祖母が言う。
うなずくだけで立ち上がった。
着替えて、歯を磨き、鞄を持つ。
時計を見る。
少しだけ急ぐ。
「はい、お弁当」
包みを手渡される。
「いってきます」
玄関に向かいながら声をかける。
「はいはい、気ぃつけて」
いつもの返事。
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扉を開けると、家の前に車が停まっている。
決まった時間、決まった場所。
近づくと、後部ドアが静かに自動で開く。
いつものように、乗り込む。
ドアが閉まる。
車は静かに走り出した。
いつも同じ道。
10分ほど。
会話はない。
運転席との間には透明な仕切りがあり、音もほとんど聞こえない。
窓の外だけが流れていく。
住宅街。
交差点。
閉まったままの店。
低い雲。
見慣れた順番で、景色が過ぎる。
信号をいくつか越えたところで、建物が見えてくる。
白い外壁の、横に長い校舎。
学校というより、研究施設に近い形をしている。
車が正面玄関で止まる。
ドアが開く。
降りる。
自動ドアの向こうは、まだ人が少ない。
広い廊下。
光沢のある床。
足音だけが、軽く響く。
「おはようございます」
すれ違った職員が、会釈する。
目が合って、すぐ逸れる。
教室は二階の奥にある。
小さな講義室のような部屋。
机はまばらで、数が少ない。
窓が大きく、空がよく見える。
席はいつも同じ場所。
鞄を置く。
しばらくして、担任が入ってくる。
「おはよう、青木」
席に着く。
担任が黒板に日付を書く。
手元の端末に触れ、出席が自動で記録される。
チョークの音だけが教室に残る。
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窓の外は晴れている。
雲がゆっくり流れている。
空が広い。
それを、しばらく眺めていた。




