第1話 馬賊の旗
満洲の夜は長い。荒涼とした草原に、時折吹きすさぶ風が地を這うように駆け抜け、野犬の遠吠えが乾いた月空に溶けていく。星々は刃のように鋭く、冷たく、地に生きる人間の運命を見下ろしているかのようだった。
張作霖は焚火の前で無言のまま腰を下ろしていた。まだ二十代半ば、背は高くはないが、鋭い眼光と筋骨の締まった身体は、若き指揮官の覇気を纏っていた。肩にかけた毛皮は狼のものだ。己が獲物として仕留めた狼を、誇りの証のように身にまとっている。
彼の周囲には十数名の男たちがいた。いずれも貧農の出であり、あるいは流浪の身であり、追われるようにして張の下に集まった者たちである。彼らは一様に痩せていたが、その目は鋭く、闇に潜む獲物を逃さぬ野獣の光を宿していた。
「頭領、次はどこを狙います?」
古参の一人、李春山が声を潜めて尋ねた。口元に不敵な笑みを浮かべながらも、その眼差しには期待があった。
張作霖は焚火に薪を投げ入れ、ぱちぱちと火花が飛ぶのを見つめながら答えた。
「明日、奉天へ向かう。商隊が戻ってくる頃合いだ。あそこを狙う」
一瞬、男たちの間にどよめきが走った。奉天は満洲随一の都市であり、清朝の拠点でもある。そこに至る街道を押さえるのは危険を伴う。しかし、それだけに得られる戦果は大きい。
「奉天の兵はどうします?」と、別の若者が問う。
張作霖は口角を上げた。「兵とて人間だ。腹が減れば弱る。恐怖を植えつければ崩れる。俺たちは風のように現れて、雷のように去る。それでいい」
男たちは口々に笑い声を上げた。その笑いには、貧しさゆえの飢えと、未来を掴まんとする飢えとが混ざっていた。
――張作霖が「馬賊の張」と呼ばれるようになる、その第一歩がここに始まろうとしていた。
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翌日、黎明の光が草原を染める頃、一団は馬を駆っていた。馬蹄が大地を叩き、冷気を裂いて進む。張作霖は先頭に立ち、風を切る。頬に当たる空気は鋭い刃のようだったが、彼の胸中は熱を帯びていた。
「見ろ、あれが商隊だ!」
斥候が指差した先に、数十頭の駱駝と荷馬を連ねた一行があった。積み荷には絹や茶葉、銃火器さえ混じっているだろう。護衛兵の数は二十ほど。彼らはまだ、この草原に潜む獣の存在に気付いていなかった。
張作霖は馬上から刀を抜き、鋭い声で叫んだ。
「突撃!」
馬賊たちは一斉に駆け下りた。砂塵が舞い上がり、地鳴りのような轟音が街道を震わせる。護衛兵は慌てて銃を構えたが、動揺は明らかだった。
最前列にいた張作霖は、槍を振るう兵をかわしざまに馬上から斬りつけた。鮮血が飛び散り、兵が馬から転がり落ちる。後続の馬賊たちが歓声を上げ、敵陣を蹂躙する。
「怯むな!撃て、撃てぇ!」護衛隊長が叫ぶが、銃声は散発的で、狙いは荒い。恐怖に駆られた彼らの足はすでに後退していた。
張作霖は冷徹に戦場を見渡した。敵の動きは予想通りだった。訓練された兵ではなく、ただの雇われ護衛に過ぎない。恐怖を刻み込むには十分だ。
「退く者は斬れ!生きて捕らえるな、死体を残せ!」
その号令に従い、馬賊たちは徹底して敵を追い詰めた。やがて護衛の列は崩壊し、残されたのは積み荷と駱駝だけとなる。
張作霖は馬を降り、倒れた兵の死体を冷ややかに見下ろした。その眼差しには憐憫も逡巡もなかった。生き残るためには、誰よりも強く、誰よりも恐ろしい存在でなければならない――それが彼の確信だった。
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戦利品を山分けした夜、男たちは大いに酒を酌み交わした。奪った酒樽が焚火の周りで開かれ、声高な歌が夜空に響いた。
李春山が張作霖の隣に腰を下ろし、杯を差し出した。
「頭領、今日の一戦で名は広まりますぜ。奉天の連中も震え上がる」
張作霖は杯を受け取り、一息に飲み干した。
「震え上がらせるだけでは足りん。いずれ俺の名は、満洲全土に轟く。清も、露西亜も、日本も、俺を無視できなくなる日が来る」
焚火の赤い炎が彼の顔を照らす。炎に浮かぶその表情は、野心と決意に満ちたものだった。
その時、遠くから馬蹄の音が響いた。男たちがざわめく。斥候が駆け込み、息を切らしながら叫んだ。
「頭領!官軍の追っ手です!五十はいます!」
場が一気に緊張に包まれる。酒気は一瞬で冷め、誰もが刀や銃を手に取った。
張作霖はゆっくりと立ち上がり、冷え切った夜風を吸い込んだ。
「面白い。俺たちがどれほどの獣か、奴らに思い知らせてやろうじゃないか」
男たちの喉から、獣じみた咆哮が上がった。焚火の炎が高く燃え盛り、その赤光に照らされた張作霖の姿は、まさしく乱世に現れた虎そのものだった。




