動き出す本能
谷を見下ろす斜面に立ち、俺たちは沈黙していた。
渓谷の入り口は思っていた以上に広く、周囲の岩肌は風雨に削られ、牙を剥いたような鋭利さを帯びていた。陽が差しているのに、そこだけ薄暗い影が差し込んでいるのが不気味だった。まるで何かが潜んでいるかのように。
「……風が止まってる」
ぽつりとリオネルが言った。
確かに、ここまで吹いていた風が嘘のように消えていた。
森や平地では感じなかった妙な圧迫感――ただの自然ではない、と俺の中の本能が警鐘を鳴らす。
「魔物がいる。近いかもしれない」
「感知したのか?」
「いや……気配の歪みがある。視界じゃなく、肌で感じる」
俺の言葉に、リオは小さく頷いた。もう、驚かなくなった。俺が“何かを感じる”ときの表情を、彼は少しずつ覚えてきたのだろう。
「準備、しとくか」
「念のため、な」
俺は杖の柄を軽く握り、リオは腰の剣に手を添えた。緊張が、ふっと呼吸に入り込んでくる。
それでも。
「……行こうぜ」
「おう」
俺たちは歩を進めた。
谷に入るとすぐ、空気が変わった。
湿気と、鉄のような匂い。岩肌のあちこちに擦れた爪跡が残されていて、近くの地面には干からびた骨らしきものも落ちていた。
「……ここで、何かが喰われてる」
「野犬か、それとも……」
リオネルが口を噤んだ。その表情から、言葉の続きを読み取ることは簡単だった。
――もっと大きな、そしてより凶悪なもの。
谷の狭間に響く、水音。遠くで岩が転がるような鈍い音。
俺たちは無言のまま進みながら、周囲を絶えず警戒した。
「なあ、ルシアン」
「ん?」
「もし、でかいやつが出たら、お前が正面頼む。俺、側面から援護する」
「わかった。でも……一人で突っ込むなよ」
「お前こそ」
自然と、目を見交わして笑みが零れた。
緊張の中で、こんな風に笑えるのは、たぶんリオネルだけだ。
谷の奥へ進むほど、異臭が濃くなってきた。
その時だった。
ギィィ……ギッ……。
まるで岩の間から軋むような音がした。
「止まれ」
リオネルの声で、俺たちはすぐに足を止めた。
前方の岩場に、不自然な影――違う。
影じゃない。
そこに、いた。
巨大な、黒い、獣のような魔物。
背には棘のような突起、眼だけが異様に光っている。
「……こいつ……野犬じゃない……」
俺は呟く。
「完全に、魔物だ」
その瞬間、魔物が動いた。
咆哮とともに、地響き。
俺とリオネルは即座に散開した。
――戦いが、始まる。
渓谷の奥――湿った岩肌と絡みつくような空気の中で、俺たちは異形と対峙していた。
「下がれリオ!」
咄嗟に杖を掲げ、魔力を集中させた――瞬間だった。
ゴン、と乾いた音が響き、杖の中ほどが鈍く折れた。俺の手元から、裂けるような音と共に、杖の半身が岩へと転がる。
「……嘘、だろ」
これまで、どんな訓練でも決して折れなかった杖が……。
だが、今はそれを悲しむ暇もない。俺は知っていた。俺は――本当は、杖なんかなくても詠唱できる。
「ルシアン!!」
リオの叫びに、我に返った。
彼の剣が渓谷の赤黒い空気を裂く。鋭く、流れるような剣技。魔物の太い爪と牙の嵐の中、恐れることなくその身を投じていた。
その剣筋は、かつて見た騎士たちよりも鋭く、なにより迷いがなかった。相手の攻撃を逸らし、踏み込み、斬る。間合いを詰めては打ち込む動作には一切の無駄がない。
「……強いな、リオ」
俺の中で、ふつふつと何かが沸き上がる。
渓谷の瘴気と魔素が俺の魔力を刺激していた。けれど、それは以前のような暴走とは違う。脈打つように、身体の中心からせり上がってくる“何か”を、俺は確かに感じていた。
「――くっ……っ!」
叫びとともに、俺は両手を構えた。杖はない。だが必要なかった。
俺の中の魔素が風の刃と炎の奔流へと変わり、呼吸とともに、世界へ放たれた。
風が唸り、岩壁に風圧の刻印を刻む。
後方から迫る魔物に向けて、俺は振り返りざまに掌を掲げた。
「下がれ、今は――来るな」
言葉は必要なかった。
膨大な魔力が一瞬にして収束し、空間が歪むような音を立てて、爆ぜる――赤と橙の炎が咆哮のように燃え上がった。
風と炎。相反するはずの魔法が、俺の中では並列に制御されていた。
「……あ、あれは……」
後方にいたリオが、震えるような声で呟いた。
「同時に、二系統の魔法……?」
俺の背で、彼が驚愕する気配を感じた。だが、今の俺には、声も届かない。思考は研ぎ澄まされ、ただ一つ――目の前の敵を“討つ”ことだけに向いていた。
(負けない……負けるわけには、いかない……)
「俺は、負けない」
呟きと共に、魔力が解放された。
爆風のような風の刃が敵の脚を削ぎ、踊るように炎が魔物の身体を焼く。目の前の空気が震え、渓谷が吠えた。
リオは――そんな俺の背を見ながら、剣を再び強く握りしめた。
「……俺はお前を信じる」
その言葉は、俺には届かなかった。
けれど、俺の中にある“核”のようなものが、静かに反応していたのかもしれない。
リオは目の前の魔物に再び飛び込む。
斬る。
踏み込む。
痛む左腕に血が滲み、剣を持つ右手にも痺れが走っていた。
それでも彼は、迷わず斬った。
「ルシアン、お前の風が……見えてる。炎が……背を守ってる」
二人の攻撃が、初めて“交わった”瞬間だった。
風が敵の動きを止め、リオの剣が深く喉元を貫く。後方の魔物が吠え、逃げるように崖上へ駆け上がっていく。
戦いは、終わった。
俺は膝をつき、深く息をついた。
リオも、同じように地面へと座り込んでいた。腕の傷口から血が滲む。
「……お前、ホントに、なんなんだよ……」
「それ、俺の台詞だよ……」
笑う余裕はなかったが、どこかで笑っていた。
火照る胸の奥、痛む腕、焦げた地面の匂い――それら全てが、確かに俺たちが“共に生き延びた証”だった。