背中合わせ
森の奥へと続く、苔むした獣道を歩いていた。
午前中に峠を越えたばかりで、俺たちはすでに脚に鈍い疲れを感じ始めていた。雨上がりのぬかるみが靴底にまとわりつき、歩くたびに重くなる感覚。けれど、文句を言う者はいなかった。
リオは先を歩く。背中越しに見える金髪が湿った空気に少しだけ揺れている。その肩は相変わらず無駄がなく、野営の荷を背負いながらも姿勢を崩さなかった。あの体幹の強さは、生まれつきのものではない。訓練の積み重ねだ。
「……この辺、野犬が出るらしい」
「野犬? ……ただの犬じゃなさそうな言い方だな」
「魔素を取り込んでるって話。目が赤く光って、牙も異様に伸びるらしい」
「それ、もう犬じゃないだろ……」
互いに冗談のように交わしながらも、空気は次第に張り詰めていった。
俺は右手に魔力の気配を集める訓練をしていた。暴走しないよう、深く息を吐いては整える。母を巻き込んだあの一件以来、自分の魔力を“他人に向けて使う”ことに恐怖があった。けれど、リオと一緒にいると、不思議と地に足がつく気がする。
魔物の森の入口に立ったとき、あの記憶が脳裏をよぎった。
――母が、俺を守るために魂ごと弾き飛ばされたあの瞬間。
膨大な魔力。それを俺は扱える。ただ、それが「他者のため」であった時、予期せぬ暴走が起こる。
誰かを守るという想いが、時に制御を超えるのだ。
「足を止めるな。耳を澄ませろ」
リオが小声で言った。次の瞬間だった。
――茂みの奥、左斜め前方から、低い唸り声。
俺たちは同時に足を止めた。
「来るぞ」
音もなく現れたのは、まるで黒い霧を纏ったような犬型の魔物だった。毛並みはざらつき、唾液を垂らしながら異常に伸びた牙を剥き出しにしている。背丈は俺の胸元ほど。数も――三体、いや、奥にもう一体いる。
「囲まれた……っ」
背を合わせる形で、自然と俺とリオの体が重なった。
「お前、前を三体。俺が後ろの一体、引きつける」
「いや、魔力でまとめて吹き飛ばせる。下がってろ」
「お前、まだ加減効かねえだろ。頼む、任せろ」
その一言に、言い返せなかった。リオの声は静かだったけれど、確かに俺を信じている気配があった。
俺は呼吸を整えながら、前方の三体に意識を集中させた。魔力を暴走させないように細心の注意を払う。けれど、その一瞬――
背後で、激しい風を裂く音。そして、低く唸るような咆哮。
「ルシアン、下がれっ!」
振り返ると同時、リオの体が俺の視界を遮った。彼は咄嗟に身を投げ出し、俺の前に立ちはだかる。その肩口を、大きな影が掠めた。
――黒い霧を纏った、野犬とは異なる、獣のような存在。
その爪が、リオの左腕を切り裂いた。
「っ……ぐ……」
リオは声を上げなかった。ただ、顔をしかめて俺を庇い続けていた。
「なんで、お前が……!」
怒りとも、恐怖ともつかぬ感情が一気に胸を突き上げた。
目の前で、また誰かが倒れようとしている。あの時と同じだ。母を守れなかった、あのときと。
けれど、今回は違った。
俺は、リオの流れる血を見て――足を動かした。
「……うおぉおおっ!!」
俺の中で、魔力が膨れ上がった。だが、暴走はしなかった。リオの姿が、今の俺の“重し”になったのだ。制御する、という強い意志。それが今、初めて形になった気がした。
炎のような光が、俺の掌に集まる。それを一閃、前方の敵へと解き放った。
轟音。風。土煙。そして、異形の影がそのまま後方へと吹き飛ばされた。
しばらくして、辺りに静寂が戻った。
「リオ……っ」
彼はまだ立っていたが、腕からは血が流れ、顔色も悪い。
「……無事かよ、お前」
「無事じゃないのは、お前の方だろ!」
すぐに俺は荷物を漁って包帯と薬草を取り出す。母が教えてくれた通りの手順で、リオの腕に布を巻き、出血を抑える。
「……手、震えてるぞ」
「黙ってろ、集中してんだから……」
リオは、いつものように微かに笑った。
治療が終わる頃には、俺の額にも汗が滲んでいた。緊張と、恐怖と、何よりも――リオを失わずに済んだ安堵。
全ての野犬と魔物が倒されたことで、辺りは再び静けさを取り戻していた。
俺たちは、焚き火を囲むようにその場にへたり込んだ。力が抜けた。手も、脚も、心も。
「……なあ、ルシアン」
「……ん?」
「お前、すげえな」
「何がだよ」
「ちゃんと、俺のこと見てた。で、決めたんだろ。どうするか」
「……見てたよ。見てなきゃ、また失ってた」
リオは目を閉じたまま、小さく笑った。
「そうか。なら、次も頼むわ。背中、預けてやる」
「……ああ」
この時、たぶん俺たちは、本当の意味で“仲間”になった。
風が涼しいな、とリオが呟いたのは、ちょうど昼を少し過ぎた頃だった。
眼前に広がるのは、山あいを縫うように続く小道と、その先に見える古い石橋。俺たちが目指している“血煙の渓谷”は、あの橋を渡ったさらに奥にある。
「なあ、少しここで休もうぜ。日が落ちる前に橋を越えたいけど、腹が減った」
「同感。足も、ちょっと重い」
俺はうなずいて、すぐそばの枯れた切り株に荷を下ろした。リオもその隣に腰を下ろすと、荷袋から何やら取り出し始める。
「さて……昼飯、なんとかするか」
取り出したのは、小さな鉄製の網と、朝方に川で釣った魚だった。リオは慎重に火を起こし、魚を炙り始める。その動きがどこかぎこちない。
「リオ、お前……魚、焼くの初めてか?」
「……黙れ、練習中だ」
しばらくして、魚から立ち上る香ばしい……いや、少し焦げ臭い匂い。
「おい、焦げてる」
「わかってる……火が強すぎたか……」
リオは魚を網から外すと、皮が半分炭になってしまった部分を申し訳なさそうに俺に差し出した。
「……一応、食えるぞ?」
「焦げの部分を落とせばな……」
俺たちは、焦げた魚の身をほじくりながら静かに笑った。戦いの中では見せない、どこか“年相応”の表情だったと思う。
そのときだった。
「旅の方かい?」
声をかけてきたのは、通りすがりの農夫風の男性だった。後ろには、同じく荷車を引いていた老夫婦と子供の姿も見えた。
「ええ、少し先の渓谷を越えて……向こうの街道まで行く予定で」
リオが、自然な口調で答える。言葉選びに慣れてる。さすが元王子、なんて口が裂けても言えない。
「ほう、若いのにしっかりしてる。こんな焦げた魚じゃ栄養も足りんだろう、ほら、うちの畑の果物だけど」
老婦人が、布に包まれた果物の包みを差し出してくれた。赤く熟れた桃と、小ぶりなリンゴがいくつか入っている。
「え、あの……すみません、いただけないです、こんな……」
「いいんだよ。旅人に親切するのが昔からの教えさ。無事に目的地まで行っておくれ」
そう言って、老婦人は俺たちの頭を優しく撫でた。リオが一瞬きょとんとした顔になり、俺は思わず吹き出しそうになった。
「……ありがとうございました。大事にいただきます」
農夫たちが去ったあと、俺たちは果物を半分こして食べた。
「……あったかいな、こういうの」
「……うん」
静かな沈黙が流れる。
俺は、果物の甘さを噛み締めながらふと思った。民を守るって、こういう人たちを守ることなんだろうか。母がしてきたこと、父が背負ってきたもの、少しだけ胸の奥に染みてきた気がした。
リオは何も言わなかったけれど、彼も同じように空を見上げていた。高く、雲ひとつない午後の空。
「なあ、ルシアン」
「ん?」
「今度は俺が、ちゃんと魚、焼けるようにしてみせる」
「……期待してる」
笑い合ったその瞬間、どこか、少年に戻ったような気がした。
――だが、その静けさも、渓谷の先で待つものの前では、あまりにも儚いことを、俺たちはまだ知らなかった。