表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/4

逃げてもいいさ

それは、食事が終わったあとのことだった。


リオと同じ草の上に腰を下ろし、俺たちは短い休憩を取っていた。風が森を渡り、木漏れ日が地面に揺れる。遠くから小鳥の声が聞こえた。まるで何も起きていないような静けさだった。


「ルシアンってさ、誰かにつけられた名前? それとも自分で決めた?」


突然の問いかけに、俺は一瞬だけ言葉を探した。


「……まあ、両親がくれた名前だよ」


「やっぱり、そうか。……ねえ、俺、あの城にいた頃、自分の名前で呼ばれること、ほとんどなかったんだ」


「城……?」


その言葉に、思わず聞き返す。リオの目が、ほんのわずか揺れたように見えた。


「うん。城の西の塔の方の部屋だった。いつも天井の隙間から見える空を見てたよ。……外に出たいなって、ずっと思ってた」


「城の人、だったの?」


「まあ、そんなところ。少し、窮屈な家だったんだ」


「窮屈……?」


「望まれてる姿でいるのが当たり前でさ。剣術、礼儀、言葉遣い、呼吸の仕方まで全部、“それらしく”あることを求められた。朝から晩まで誰かが見てて、笑い方ひとつ間違えたら注意されて……ね。ああ、俺、ここにいない方がいいなって、だんだん思うようになった」


その声音は、あまりにもさらりとしていて、逆に胸を突いた。悲しげでも怒ってもいない。ただ淡々と、語る。


「俺が旅に出たのは、逃げたかったからだよ。ちゃんと逃げたの、生まれて初めてだった。ダサいって言われるかと思ったけど、言われたくもなかったし、もうどうでもよかった」


「……ダサくないよ」


俺は思わず言っていた。「人は逃げなきゃ生きていけない時もある」


「わりと、すぐそういうこと言うよね。……でも、ありがと」


リオは少し笑って、それから空を見上げた。


「ルシアンはさ、旅の目的、なんなの?」


「……大事な人を、取り戻しに行く」


「ふうん。そういうの、いいな。おれも……たぶん、ほんとは何かを探してるのかもしれない」


リオの言葉には、わずかな空白があった。何かを語らず、抱えたままにしている感触がある。でも、それは俺も同じだ。


俺は自分の力を、母を傷つけてしまったその力を、まだちゃんと受け入れられていない。リオもまた、自分の居場所を失って、それでも前に進もうとしている。


「なあ。いつまでもここに座ってるわけにもいかないし、行こうぜ」


「?」


「西だろ? お前、地図とか持ってたもん」


「……まぁ、西だな」


「俺も一緒に旅して良いか?ずっと憧れてたんだ」


その言葉には、ふざけた調子の中にどこか本気が混じっている気がした。

しかし、決して楽な旅ではないと思っている。


「わかった。でも....離れたくなったらいつでも言って」


リオネルが驚いた表情を浮かべた。

「ここで会ったのも運命ってやつかもだろ?旅は道ずれ...だっけ?上等だよ」


俺は、そのまなざしが嬉しくて、静かに笑った。


「よろしくな、リオ」

右手を差し出す。


「よろしく、ルシアン」

俺の右手を力強く握るリオ。


そして、俺たちは一緒に歩き出した。


この道の先に何があるのか、まだわからない。

でも、ひとりじゃないと感じたこの瞬間のことは、きっと忘れない。


それは、夜明け前の静かな夜だった。


長く歩いた一日の終わり。湿った土の匂いと、かすかに甘い枯葉の香りが混じる山道の野営地で、俺とリオは小さな焚き火を囲んで座っていた。西へ向かう道は想像以上に険しく、気づけばお互いほとんど口を利かないまま黙々と歩いていた。


焚き火の薪がぱちりと音を立て、橙色の火が揺れながら枝を焦がしていく。火を見ていると、なぜか少しだけ安心する。母さんが昔、薬湯を煎じていた時の匂いにも似ていて、懐かしさに胸がじんとする。


ふと隣を見ると、リオは黙って剣の手入れをしていた。火の光を反射する銀色の刃を布で丁寧に拭いている。まるで儀式のように、静かで整った手付きだった。


「……なんでそんなに丁寧に剣、扱うの?」


俺がぽつりと尋ねると、リオは少しだけ手を止めて、それからまたゆっくりと動かし始めた。


「これしか、教えられてこなかったからさ」


言葉は軽く聞こえたけど、その奥に何か沈んでいる気がした。俺は問いを続けた。


「教えられたって、どこで?」


「昔いた家。……まあ、ちょっと窮屈なとこだった」


リオの口調は変わらなかった。でも、その“窮屈”という言葉の中には、何か息苦しいものが含まれているように思えた。


「毎日剣を持って、毎日決まった動きをして、誰が見てても見てなくても間違えたら駄目で。笑うタイミングも、言葉の調子も、“らしく”いなきゃいけなくてさ」


「……“らしく”?」


「それっぽい自分。求められてる役割、みたいなやつ」


言葉に含まれる苦笑いの気配が、俺には痛かった。俺にはそんな経験はない。でも、似たものはある。違う種類の痛みかもしれないけど。


「それって……きつかっただろ」


「そりゃまあね。でも、それが“普通”だと思ってた。……ある日気づいたんだ。あ、俺、ただの人形みたいに過ごしてたなって」


リオは剣の手入れを終えて、鞘に納めると静かに横たえた。


「だから、出てきたんだよ。自分で歩ける場所を、探したくなってさ」


「……逃げたってこと?」


「うん、そう。逃げた。あの空間で息をし続けてたら、自分が何者だったかも忘れてたと思う。誰かに期待されてる像を演じてるうちに、本当の自分が擦り減ってくのがわかった」


その言葉には、明るさも諦めもなかった。ただ、静かな決意がにじんでいた。


「俺は逆だよ。俺の力は、自分を壊すもんだった」


リオがこちらを見る。俺はその視線を避けず、続けた。


「暴走して、母さんを……眠らせてしまった。俺が守りたかったのに」


火が、少しだけ大きく揺れたように見えた。


「それでも、戻したいって思えるのは、すげえよ」


リオの言葉は、まっすぐだった。飾りも慰めもない。でも、力強かった。


「……ありがとな」


「お前さ、強いんだよ、根っこが。俺とは違う」


「リオだって、強いよ」


「いや、俺はただ……どうしていいかわかんなくて、逃げてきただけだし」


「それでも、ここにいるじゃん」


リオは火を見つめながら、ふっと笑った。


「お前と会えてなかったら、とっくに道端で寝てたかもな。……もうちょいだけ付き合ってやるよ」


「助かるよ。……ひとりじゃ、きっと俺も潰れてた」


しばらくの沈黙のあと、リオがぽつりと呟いた。


「……お前のそういうとこ、ちょっとだけ、うらやましいかもな」


「そうか?」


「ああ。俺には、もう戻りたいって思える場所が、あるのかないのか、わかんなくなってるからさ」


その声はかすかに揺れていた。でも、俺はそれを責めようとは思わなかった。


「……なら、これから探せばいい。俺もそうしてる」


「はは、ほんと真面目だなお前は」


「そう言われる筋合いないよ、リオこそ……妙に達観してるし」


「それ、褒め言葉か?」


「……さあ、どうだろ」


笑い合った。ほんの少しだけ、心が近づいた気がした。


朝が来る頃には、風が冷たくなっていた。


「寒いな」


「焚き火、薪くべるか」


「なあ、ルシアン」


「ん?」


「……ありがとう」


その一言に、俺は何も言えなくて、ただ火を見ていた。


この夜、きっと俺たちは、少しだけ変われた気がした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ