逃げてもいいさ
それは、食事が終わったあとのことだった。
リオと同じ草の上に腰を下ろし、俺たちは短い休憩を取っていた。風が森を渡り、木漏れ日が地面に揺れる。遠くから小鳥の声が聞こえた。まるで何も起きていないような静けさだった。
「ルシアンってさ、誰かにつけられた名前? それとも自分で決めた?」
突然の問いかけに、俺は一瞬だけ言葉を探した。
「……まあ、両親がくれた名前だよ」
「やっぱり、そうか。……ねえ、俺、あの城にいた頃、自分の名前で呼ばれること、ほとんどなかったんだ」
「城……?」
その言葉に、思わず聞き返す。リオの目が、ほんのわずか揺れたように見えた。
「うん。城の西の塔の方の部屋だった。いつも天井の隙間から見える空を見てたよ。……外に出たいなって、ずっと思ってた」
「城の人、だったの?」
「まあ、そんなところ。少し、窮屈な家だったんだ」
「窮屈……?」
「望まれてる姿でいるのが当たり前でさ。剣術、礼儀、言葉遣い、呼吸の仕方まで全部、“それらしく”あることを求められた。朝から晩まで誰かが見てて、笑い方ひとつ間違えたら注意されて……ね。ああ、俺、ここにいない方がいいなって、だんだん思うようになった」
その声音は、あまりにもさらりとしていて、逆に胸を突いた。悲しげでも怒ってもいない。ただ淡々と、語る。
「俺が旅に出たのは、逃げたかったからだよ。ちゃんと逃げたの、生まれて初めてだった。ダサいって言われるかと思ったけど、言われたくもなかったし、もうどうでもよかった」
「……ダサくないよ」
俺は思わず言っていた。「人は逃げなきゃ生きていけない時もある」
「わりと、すぐそういうこと言うよね。……でも、ありがと」
リオは少し笑って、それから空を見上げた。
「ルシアンはさ、旅の目的、なんなの?」
「……大事な人を、取り戻しに行く」
「ふうん。そういうの、いいな。おれも……たぶん、ほんとは何かを探してるのかもしれない」
リオの言葉には、わずかな空白があった。何かを語らず、抱えたままにしている感触がある。でも、それは俺も同じだ。
俺は自分の力を、母を傷つけてしまったその力を、まだちゃんと受け入れられていない。リオもまた、自分の居場所を失って、それでも前に進もうとしている。
「なあ。いつまでもここに座ってるわけにもいかないし、行こうぜ」
「?」
「西だろ? お前、地図とか持ってたもん」
「……まぁ、西だな」
「俺も一緒に旅して良いか?ずっと憧れてたんだ」
その言葉には、ふざけた調子の中にどこか本気が混じっている気がした。
しかし、決して楽な旅ではないと思っている。
「わかった。でも....離れたくなったらいつでも言って」
リオネルが驚いた表情を浮かべた。
「ここで会ったのも運命ってやつかもだろ?旅は道ずれ...だっけ?上等だよ」
俺は、そのまなざしが嬉しくて、静かに笑った。
「よろしくな、リオ」
右手を差し出す。
「よろしく、ルシアン」
俺の右手を力強く握るリオ。
そして、俺たちは一緒に歩き出した。
この道の先に何があるのか、まだわからない。
でも、ひとりじゃないと感じたこの瞬間のことは、きっと忘れない。
それは、夜明け前の静かな夜だった。
長く歩いた一日の終わり。湿った土の匂いと、かすかに甘い枯葉の香りが混じる山道の野営地で、俺とリオは小さな焚き火を囲んで座っていた。西へ向かう道は想像以上に険しく、気づけばお互いほとんど口を利かないまま黙々と歩いていた。
焚き火の薪がぱちりと音を立て、橙色の火が揺れながら枝を焦がしていく。火を見ていると、なぜか少しだけ安心する。母さんが昔、薬湯を煎じていた時の匂いにも似ていて、懐かしさに胸がじんとする。
ふと隣を見ると、リオは黙って剣の手入れをしていた。火の光を反射する銀色の刃を布で丁寧に拭いている。まるで儀式のように、静かで整った手付きだった。
「……なんでそんなに丁寧に剣、扱うの?」
俺がぽつりと尋ねると、リオは少しだけ手を止めて、それからまたゆっくりと動かし始めた。
「これしか、教えられてこなかったからさ」
言葉は軽く聞こえたけど、その奥に何か沈んでいる気がした。俺は問いを続けた。
「教えられたって、どこで?」
「昔いた家。……まあ、ちょっと窮屈なとこだった」
リオの口調は変わらなかった。でも、その“窮屈”という言葉の中には、何か息苦しいものが含まれているように思えた。
「毎日剣を持って、毎日決まった動きをして、誰が見てても見てなくても間違えたら駄目で。笑うタイミングも、言葉の調子も、“らしく”いなきゃいけなくてさ」
「……“らしく”?」
「それっぽい自分。求められてる役割、みたいなやつ」
言葉に含まれる苦笑いの気配が、俺には痛かった。俺にはそんな経験はない。でも、似たものはある。違う種類の痛みかもしれないけど。
「それって……きつかっただろ」
「そりゃまあね。でも、それが“普通”だと思ってた。……ある日気づいたんだ。あ、俺、ただの人形みたいに過ごしてたなって」
リオは剣の手入れを終えて、鞘に納めると静かに横たえた。
「だから、出てきたんだよ。自分で歩ける場所を、探したくなってさ」
「……逃げたってこと?」
「うん、そう。逃げた。あの空間で息をし続けてたら、自分が何者だったかも忘れてたと思う。誰かに期待されてる像を演じてるうちに、本当の自分が擦り減ってくのがわかった」
その言葉には、明るさも諦めもなかった。ただ、静かな決意がにじんでいた。
「俺は逆だよ。俺の力は、自分を壊すもんだった」
リオがこちらを見る。俺はその視線を避けず、続けた。
「暴走して、母さんを……眠らせてしまった。俺が守りたかったのに」
火が、少しだけ大きく揺れたように見えた。
「それでも、戻したいって思えるのは、すげえよ」
リオの言葉は、まっすぐだった。飾りも慰めもない。でも、力強かった。
「……ありがとな」
「お前さ、強いんだよ、根っこが。俺とは違う」
「リオだって、強いよ」
「いや、俺はただ……どうしていいかわかんなくて、逃げてきただけだし」
「それでも、ここにいるじゃん」
リオは火を見つめながら、ふっと笑った。
「お前と会えてなかったら、とっくに道端で寝てたかもな。……もうちょいだけ付き合ってやるよ」
「助かるよ。……ひとりじゃ、きっと俺も潰れてた」
しばらくの沈黙のあと、リオがぽつりと呟いた。
「……お前のそういうとこ、ちょっとだけ、うらやましいかもな」
「そうか?」
「ああ。俺には、もう戻りたいって思える場所が、あるのかないのか、わかんなくなってるからさ」
その声はかすかに揺れていた。でも、俺はそれを責めようとは思わなかった。
「……なら、これから探せばいい。俺もそうしてる」
「はは、ほんと真面目だなお前は」
「そう言われる筋合いないよ、リオこそ……妙に達観してるし」
「それ、褒め言葉か?」
「……さあ、どうだろ」
笑い合った。ほんの少しだけ、心が近づいた気がした。
朝が来る頃には、風が冷たくなっていた。
「寒いな」
「焚き火、薪くべるか」
「なあ、ルシアン」
「ん?」
「……ありがとう」
その一言に、俺は何も言えなくて、ただ火を見ていた。
この夜、きっと俺たちは、少しだけ変われた気がした。