出会い、かな
朝焼けが山の端を染める頃、俺は馬の背から降りた。
道の先に広がっているのは、小さな村――父と母が、かつて共に暮らしていた場所だ。
ここには何度か来たことがある。
王族の護衛に囲まれていたから、あのときの俺はただの「客」だったけれど。
でも、村の空気や土の匂いは覚えてる。遠くから流れてくる井戸水の音も。
今、俺は一人だ。
王子の肩書きも、魔王の息子という重さも置いてきた。
ただのルシアンとして、母の記憶に触れたくて、この村に立っている。
城では母上と呼んでいたけど、本当は母さんと呼びたかった。2人でいた時の呼び方。
村の入口で立ち止まると、畑の手入れをしていた老婆がこちらに気づいて顔を上げた。
「あら……あらまあ。坊ちゃんかい? まあまあまあ、大きゅうなって」
笑いながら手を振る姿は、変わっていなかった。
頬の皺も、かすれた声も、俺の記憶にちゃんと残っていた。
「おばあちゃん、久しぶり。元気そうでよかった」
「元気でいるともさ。……まあよう来たねえ。おひとりで?」
「うん、ちょっと……旅の準備をしようと思って」
「んまあ。あんたが旅に? そりゃあ……立派になったねえ」
そう言いながら老婆が呼びかけると、奥から村人たちが少しずつ集まってきた。
俺は軽く頭を下げて、挨拶を繰り返した。誰もが優しくて、あたたかくて。
ここには、余計な言葉も詮索もない。俺のことを“坊ちゃん”と呼び続けてくれる人たちがいる。
家は、村のはずれ。森に近い小道を抜けた先にある。
低い石垣と、木の門。白い壁に藍色の屋根。
俺が生まれる前、父さんと母さんがしばらく暮らしていたという家。
何年も前から空き家のままだったけれど、鍵は預かっていた。
扉を開けると、まだほんのりと、母さんの残り香がした。
香草と干し花と、本の紙のにおい。懐かしくて、喉の奥がつまった。
荷を降ろし、机を拭き、古いランプに火を入れて。
俺は地図を広げた。魔王国の東端に近いこの村から、精神界の門があるとされる霊脈地帯までは、最低でも一月はかかる。
最短経路は王都を抜けるルート。でも、注目されすぎる。
俺はあえて、人の少ない西回りの山岳経路を選んだ。時間はかかるが、安全と静けさは確保できる。
「……ここから、北西へ抜けて、フルグ村。そこから山岳地帯……」
地図を指でなぞるたびに、心がざわめく。母さんは、まだ向こうにいる。
だから、迷っている時間はない。
出発の朝。
俺は厩の前で立ち止まり、馬の鼻面をそっと撫でた。
「……ここから先、一緒に行くには無理があるな」
霊脈地帯がどんな場所かもわからない。水も草もない道を歩くかもしれない。
もし倒れたら、この子を守れる自信はなかった。
「預かってもらってもいいかな」
村長に事情を話すと、彼は快くうなずいてくれた。
「もちろん。あの馬も、おぬしが乗ってきた中で一番よく馴染んでおる。帰ってきたら迎えに来い」
「うん、ありがとう。ちゃんと戻ってくるから」
馬に最後の礼を言って、俺は荷を背負い直した。
草を踏む音が、自分の足から聞こえるのは久しぶりだった。
――そして、出会った。
小さな峠を越えた先の森の道端。
朝露の残る草むらの中、ひとりの少年が木陰に腰を下ろしていた。
……旅人、か?
その少年は、俺と同じくらいの年齢に見えた。
短めの金髪はどこか手入れが行き届いていて、装束は質素なのに上品な雰囲気が漂っていた。
背負った荷も重そうなのに、身のこなしにはどこか無駄がない。
――いや、それだけじゃない。
剣だ。腰に帯びた細剣のバランスと、歩いたあとの足運びの軽さ。
あれは“ちゃんと訓練を受けた人間”の動きだった。
見張りのように静かに目を動かしていた彼が、俺に気づいて顔を上げた。
「……あんた、旅人か?」
「うん。そっちこそ」
警戒している目つきだった。でも、剣に手をかける気配はなかった。
「……あんた、一人?」
「うん。今のところは、ね」
「同じだな」
ふっと、少年が目を細めて笑った。その顔が、なんだか不思議だった。
あたたかさも、寂しさも、両方あって。誰かを探してるような気配もして。
「一人旅って、思ったより面倒だよな。飯の用意も、地図の確認も、全部自分でやらなきゃいけない」
「慣れたら平気だよ。俺は一応、目的地があるから」
「ふーん、そうなんだ。俺もまあ、気まぐれだけど行く先は決めてる」
「……そう」
沈黙になった。でも、嫌な空気じゃなかった。
それに、変な話だけど――どこか似ていると、思った。
誰にも言えないことを胸に抱えていて、誰かの声が少しだけ欲しいような、そんな孤独。
「名前、聞いてもいい?」
俺が尋ねると、少年は少し間を置いてから口を開いた。
「……リオ」
「リオ。そっか。俺はルシアン」
「ルシアン? ふうん……なんか、やけに丁寧な話し方するな」
「え? あ、そうかな……」
しまった、少し王族口調が出てしまったかもしれない。
でも、リオはあまり気にしていないようだった。むしろ興味なさそうに笑った。
「まあいいや。俺、ひとり飯が飽きてたところなんだ。
一緒に食う? 今朝焼いた干し肉と、ちょっとだけパンがある」
「いいの? じゃあ……少しだけ」
俺は荷を下ろして、彼のそばに腰を下ろした。
草のにおいと、焚き火の残り香。風が静かに森を抜けていく。
言葉少ななまま、俺たちは朝のパンを分け合った。
不思議だった。何も話してないのに、なんとなく――落ち着いた。
この出会いが、あとでどれほど大きな意味を持つことになるのか。
このときの俺は、まだ知らなかった。
ただ、旅の始まりにしては、悪くない朝だった。