はじまりの日
空が割れた。
誰もがそう感じた瞬間だった。
光でも、風でもない。空間そのものが悲鳴を上げるような――あれは、震えだった。
和平を祝う式典の真っ只中。魔王国とアデルナ王国、両国の王族と使節団、重臣、兵、楽団、そして多くの民衆が集う中で、それは起きた。
凶暴化した魔物が式典広場に出現したのはほんの一瞬。時空の歪みのようなものが走り、次の瞬間には何体もの異形が大地を踏みしめていた。
式典の楽曲がかき消され、悲鳴と金属音が混ざる。
「全兵、前へ――!」
誰かが叫ぶ。騎士たちが動く。魔導士が詠唱を開始する。
けれど、その誰よりも早く動いたのは、ひとりの少年だった。
ルシアン。魔王国の第一王子。
魔王レグニスと、人間の女性アヤの間に生まれた、異端の存在。
まだ十歳になったばかりのその少年は、突如目に見えぬ圧力とともに前へと躍り出た。
瞳の奥が光を帯びる。指先に迸るのは、父譲りの魔族の力――だが、それは制御されたものではなかった。
「そこを、退いて……!」
叫びながら、ルシアンは両手を振り下ろす。空気が爆ぜ、地面が震え、風が歪む。
炸裂する魔力は魔物たちを吹き飛ばし、数体を一瞬で灰に変えた。
けれど、その場にいた誰もが気づいた。
“これは、あまりに強すぎる。”
「ルシアン、やめなさい――!」
「息子よ、それ以上は――!」
駆け寄ろうとするアヤの声が、ルシアンにはもう届いていなかった。
魔物を倒した直後。少年の身体から放たれる魔力が異常に肥大し、空気が震える。黒い波動が周囲を覆い始める。
魔力の暴走――それは、魔族の血を継ぐ者が幼少期に一度は通る試練。だが、これは尋常ではなかった。
ルシアンの中で何かが決壊し、世界の色が裏返る。
「全員、退避せよ!」
レグニスが吼えるように命じた。
王の声に、魔族の兵士たちがすぐさま動く。
レグニスが振り返ると、そこに――
アヤがいた。
暴走の中心に、彼女は迷わず入っていた。
ルシアンを、その小さな背中を、抱きしめていた。
「……ルシアン、もういいのよ。母は、ここにいるわ」
その言葉が届いたのか、少年の魔力は一瞬、静まる気配を見せた。
だが次の瞬間、世界が白く塗りつぶされ――
アヤの身体が、ゆっくりと崩れるようにその場に倒れた。
あれから、三日が経った。
母上は――生きてる。ちゃんと息もしてるし、脈もある。傷ひとつない。
でも、目を開けてくれない。声も、返ってこない。何をしても、起きないんだ。
みんなは言ってた。「魔力暴走の干渉で、意識だけが身体から弾かれてしまったのだろう」と。
精神体が迷子になったようなものだって。戻ってこれないんだって。
……全部、俺のせいだ。
守りたかった。母上を、みんなを、あの日の会場を。
でも、俺は力を制御できなかった。ただそれだけのことで、母上は――。
城の者は優しい。誰も俺を責めたりしない。
父上も、怒ったりはしない。ただ静かに「アヤに心配をかけるな」と言っただけだ。
だけど、それが一番きつかった。
俺は、王族の部屋には戻らなかった。
あの日からずっと、書庫にこもってる。母上がよく通ってた、南の塔の図書室。
昔は退屈で嫌いだった。活字ばかりで、難しくて、眠くなる匂いがして。
でも今は、ここでしか息ができない気がしてた。
魔術理論の巻物、古文書、精神構造論、異界渡航記録、実在も不明な霊脈地図。
読めない文字が出てくるたびに、老魔導士に頭を下げた。
プライドなんてどうでもよかった。母上が、戻ってくるならそれでよかった。
「……どこにいるんだよ、母上……」
ページの隅に汗が落ちた。もう何時間、何日眠ってないかわからない。
それでもやめたくなかった。
七日目の夜、ようやく手がかりを見つけた。
“門”。
精神界へ至るための境界の鍵。古代語では《アトゥ=ライ》。
その門を開くには、特定の霊脈と、術式と――何より、強い願いが必要だとあった。
願いならある。誰にも負けないくらい、ある。
俺は、母上に会いたい。
この手で、呼び戻したいんだ。
翌朝、まだ夜が残る廊下をひとり歩いた。
父上のいる玉座の間に向かって。
「父上……精神界に行く方法、ありました」
自分でも驚くほど、声が出ていた。
震えてない。詰まってもない。ちゃんと、前を向いていた。
父上は黙って俺を見た。あの、どこまでも深い眼差しで。
「本当に、行くつもりか」
「はい。……俺が、行きます。母上を、迎えに」
そのとき初めて、父上の目がわずかに細められた。
それはたぶん、王の顔じゃなかった。ひとりの“父親”の顔だった。
父上は、黙って俺を見た。
その瞳の奥に、何か強く、深く、言葉にできないものがあった。
本当は、父上が行きたいんだと思う。
母上を、最愛の妻を、眠ったままにしておけるはずがない。
父上は王で、魔王で、その前に――ひとりの夫だ。
けれど、父上は言わなかった。「自分が行く」とは。
その代わりに、俺を見つめていた。
俺がハーフだから。
人間と魔族の血を引いているから。
城の一部の者たちは、俺のことを疎ましく思っている。
“混じりもの”、“不安定な存在”、“魔王の血が薄まった”と。
けれど父上は、ずっと俺を認めていた。
ハーフであるがゆえに、どちらの種にも耐性があり、力のバランスが取れていること。
その力が、純血の魔族をも超える可能性を持っていること。
――それを、父上は知っていた。
俺が生まれる前から。母上と何度も話し合い、悩み、覚悟していたのだ。
俺に託すと、決めてくれていたんだ。
だから、父上はその場でゆっくりと手を伸ばして、俺の肩にそっと置いた。
しっかりとした重さ。けれど、優しかった。
「……頼んだぞ」
その一言に、すべてが込められていた。
俺は、何も言わずにうなずいた。
胸が熱かった。悲しみでも不安でもなく――必ずという、静かな誓いがそこにあった。
そしてその夜。
母の魂を迎えに行くため、俺は城を出た。
まだ見ぬ“精神界”へ至る道を探し、古文書に記された霊脈の地へ向かって。
だが、そう長くは一人でいられなかった。
旅に出て間もない頃、俺はひとりの少年と出会う。
年の近い、どこか気品をまとった少年。
名前は、リオネル――
そのとき俺は、まだ彼の正体も、背負っているものも、なにひとつ知らなかった。
ルシアンは実は生まれる前から大変だったんです
重い話にするつもりはありませんが、シリアス風で始まりました
彼の魔力は純粋に言うと父王を凌ぎます
みんな、いろいろ悩みを抱えてる.....よねぇ。