人生観
「生きるぞ」と決意して生きている人が、果たしてどれほどいるだろう。
「生きている」と実感しながら日々を過ごしている人など、ほとんどいないのかもしれない。
おそらくこうした思索は、死を間近に感じたときにこそ芽生えるのだろう。
私の人生には、いくつもの「やってみた」があった。
手首を切ってみた。
海に沈んでみた。
首を括ってみた。
また、思いがけず訪れる「そう来たか!」もあった。
車にはねられた。
心臓が止まったのではと疑う瞬間があった。
車が原型を失うほどの事故に巻き込まれた。
凍った道路で転び、走馬灯を見たかと思えば、二時間の闇に沈んでいたこともある。
よく生きてきたものだと思う。
だが、その時初めて、「生きている」という言葉の重みを知った。
ひとつ経験すれば充分だ。むろん、経験しないに越したことはないのだが。
それでも、そうした出来事のあとには「生きるとは何か」を考える。
無駄に生きるのではなく、価値のある生き方を、と。
しかし所詮、私は臆病者にすぎない。何ひとつ成し得ぬままに、ただ立ち尽くしている。
けれど最近、少し変わった。
無駄に生きることもまた、悪くはないのだと。
私は何事も真面目に考えすぎる。だから世の中は生きづらく、鬱々とした思索に囚われがちだった。
だが今は、考えることを放棄する術を覚えた。
「下手な考え休むに似たり」。
嫌っていたはずの「大体でいいんじゃないか」という言葉が、実は最も真実に近いのかもしれない。
答えのない問いに、答えを探す必要があるのだろうか。
節度さえ守れば、あとは大体でいい。
無駄に歳を重ねることに意味はあるのか――。
そう問いながらも、私は思う。
その「無駄」こそが、人生を豊かにするのではないかと。