第9話 決戦前夜
第7章:決戦前夜
13. それぞれの夜
決行を翌日に控えた夜。
アジトの外では、静かな雨が降り続いていた。地下深くまで、その音は届かない。ただ、換気口から流れ込む湿った空気が、世界の涙のように、彼らの肌を濡らした。
三人は、最後の準備を終え、それぞれの時間を過ごしていた。
それは、嵐の前の、あまりにも静かな夜だった。
里見は、一人、黙々とコンソールに向かい、侵入シミュレーションを繰り返していた。ディスプレイに映る彼の顔は、いつになく真剣だった。その指が、驚異的なスピードでキーボードを叩き、仮想空間の壁を次々と打ち破っていく。
それは、彼にとって、ただのハッキングではなかった。父の無念を晴らし、自分から全てを奪ったシステムへの、生涯をかけた復讐の儀式だった。時折、彼は手を止め、冷めきった合成コーヒーをすする。その横顔に浮かぶのは、決戦を前にした戦士の高揚感と、そして、心の奥底に押し殺した、孤独の影だった。
エリスは、古い紙のノートに、何かを書きつけていた。それは、数式にも、詩にも見えた。自らが産み落とした怪物の心臓を、自らの手で止めなければならない。その行為が、世界に何をもたらすのか。彼女は、その罪と罰を、全て一人で引き受ける覚悟を決めていた。ペンを置いた彼女は、そっと目を閉じ、かつての相棒の顔を思い浮かべる。秩序の怪物と化した神崎恭吾。彼と共に、純粋な理想を追いかけた日々。もし、あの時、違う選択をしていたら。そんな詮無い感傷が、彼女の胸を締め付けた。
結城は、スリーピングポッドの中で、眠れずにいた。
目を閉じれば、様々な光景が浮かんでは消える。大臣として、光の中に立っていた自分。父の書斎。神崎の冷たい指先。そして、カサンドラのデータに映し出された、無数の、声なき人々の顔。
結城は、これから、彼らの運命を、そして、世界の未来を、たった一人で背負って、あの暗闇の中へ飛び込んでいく。死ぬかもしれない。いや、おそらく、生きては戻れないだろう。恐怖が、冷たい手で、彼の心臓を鷲掴みにする。結城は、ゆっくりと身を起こすと、一枚のデータチップに、短いメッセージを記録した。宛先は、若松だ。
『君を、巻き込んで、すまない。だが、君の正義を、私は信じている』
送信ボタンを押す指が、わずかに震えた。
同じ頃、若松もまた、眠れぬ夜を過ごしていた。
結城にゼロ・サンクチュアリの脆弱性に関する情報を送った後、彼の心は、恐怖と、そして奇妙な高揚感に支配されていた。自らの行為は、間違いなく国家への裏切りだ。もし発覚すれば、自分だけでなく、愛する家族も、無事では済まないだろう。その恐怖が、彼の全身を氷のように冷たくする。
だが、同時に、彼の胸には、熱いものがこみ上げていた。明日、結城が引き金を引けば、世界は変わるかもしれない。娘が、スコアや効率性といった、冷たい数字で値踏みされることのない未来で、生きていけるかもしれない。
彼は、そっと娘の寝室を覗いた。健やかな寝息を立てる娘の顔を見つめながら、彼は、静かに誓った。娘に、いつか胸を張って、この夜の決断を話せる自分でいたい、と。彼の協力は、単なる情報提供ではない。一人の父親の、命がけの祈りだった。
アジトでは、不意に、背後から声がした。
「……眠れないのか、元大臣サマ」
里見だった。彼は、結城の隣にどかりと腰を下ろすと、栄養バーのようなものを無造作に差し出した。
「……食っとけ。明日は、長い一日になる」
「……ああ」
結城は、それを受け取った。味気ない、ただのカロリーの塊。だが、その不器用な優しさが、彼のささくれだった心を、少しだけ温めた。
二人の間に、会話はなかった。
ただ、暗闇の中で、ぼんやりと光るディスプレイの明かりを、共に眺めていた。
そこに、エリスも、静かに加わった。彼女は、温かいハーブティーの入ったカップを、二人に差し出した。
元大臣と、伝説のハッカーと、システムの創造主。
寄せ集めの反逆者たちは、最後の夜を、そうして静かに過ごした。
彼らの胸に去来するのは、恐怖か、希望か、それとも諦観か。
誰も、その答えを口にはしなかった。
ただ、彼らの頭上、遥か遠くの地上では、完璧な世界の、完璧なシステムが、何事もなかったかのように、静かに、そして着実に、その針を進めている。彼らの反逆の企てが、巨大な時計の、ほんのわずかな針の震えに過ぎないのか、それとも、全てを破壊する爆弾となるのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。
夜明けまで、あと数時間。