第6話 良心の呵責
幕間:良心の呵責
その頃、都心の一等地に立つ、真新しいスマートマンションの一室で、一人の男が、眠れぬ夜を過ごしていた。
若松。結城のかつての腹心であり、今は、神崎の監視下で、システム管理部門の職務を続けている。彼の住む部屋は、オラクルが彼の役職とスコアに応じて最適化した、最新鋭の住居だ。壁紙は、彼の精神状態を安定させるための微弱な光と色彩を放ち、空気は、彼の健康を維持するための最適な成分に調整されている。だが、今の彼にとって、その全てが、息の詰まるような、精巧な鳥籠にしか感じられなかった。
数週間前、神崎から、官房長官室に呼び出された。そして、若松の幼い娘が、最新の医療プログラムを受けている映像を、無言で見せられた。それは、善意の仮面を被った、あまりにも残酷な脅迫だった。
『結城君は、少し、道を踏み外し始めている。君は、家族と、この国の秩序、どちらが大切かね』
若松は、屈するしかなかった。彼は、尊敬する上司である結城に、「『カサンドラ』のデータは、過去のシミュレーションの残骸で、すでに完全に破棄済みだ」という、オラクルが生成した完璧な偽のシステムログを見せ、その信頼を裏切った。結城が、失望と、そしてわずかな安堵が入り混じったような顔で頷いた、あの瞬間を、若松は忘れることができない。
だが、テレビのニュースで、結城が「長期療養」の名の下に、事実上更迭されたのを知った時、彼の心は限界に達した。尊敬する上司を、自らの手で地獄に突き落としてしまった。その罪悪感が、毎晩、彼を苛む。食事は喉を通らず、眠ろうと目を閉じれば、神崎の冷たい目と、結城の苦悩の表情が、交互に浮かんでくる。
「……パパ、どうしたの?眠れないの?」
リビングのソファで頭を抱えていると、寝室から出てきた娘が、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。まだ6歳の娘。彼女の瞳は、この世界の欺瞞など何も知らず、ただ純粋に輝いている。
「……なんでもないよ。少し、考えごとしてただけだ」
若松は、無理に笑顔を作って娘の頭を撫でた。この子の生きる未来。結城が密かに調べていた「カサンドラ」の断片的な情報を、彼はシステムのログから垣間見てしまっていた。この子の遺伝子情報も、将来の可能性も、全てがオラクルによって値踏みされ、社会エントロピー指数の構成要素として計算されている。この子の未来が、見えざる手によって、いつか「不要」と判断され、緩やかに間引かれる日が来るかもしれない。自分は、この子のために、魂を売った。だが、その結果、この子から、間違う自由、失敗する自由、そして、不完全に生きる自由という、本当の未来を奪っているのではないか。
彼は、意を決すると、厳重にロックされた自室に入り、古い通信端末を起動した。それは、彼がシステム管理部門の職務上、密かに維持していた、オラクルの監視網からは隠蔽された、唯一の抜け道だった。ネオ・ラッダイト運動が激化していた『失われた半世紀』の時代に、物理的なテロ対策として急遽増設されたメンテナンス用の裏ルート。あまりに旧式で、公式のシステム設計図からも抹消されているため、神崎ですら、その存在には気づいていないはずだ。
端末の電源を入れると、無機質なコマンドラインが、暗闇に浮かび上がった。彼の指が、震えながらキーボードの上を彷徨う。今、自分がしようとしていることは、国家への反逆だ。家族を、破滅させる行為かもしれない。だが。
『……結城さん。俺は、取り返しのつかないことをした。だが、もし、まだ俺にできることがあるのなら……』
震える指で、彼は、メッセージを打ち始めた。それは、せめてもの、彼の良心からの、そして、一人の父親としての、贖罪だった。