第5話 追放
第4章:追放
7. 消された男
翌朝、結城を待っていたのは、事実上の「解任通告」だった。
表向きは、「長期療養のための、大臣職の一時的な休職」。しかし、彼の大臣権限は全て凍結され、執務室への立ち入りさえも禁じられた。
神崎による、完璧なまでの情報統制と、社会的な抹殺だった。
公邸を出て、街を歩く。
昨日までとは、何もかもが違って見えた。街を行き交う人々は、誰もが幸福そうに見える。D-BIによって生活を保障され、自分の好きなことに没頭している。だが、結城には、彼らの頭上に、オラクルが付けた「値札」が見えるような気がした。
すれ違う人々の衣服の素材が、腕に表示されたスコアと連動するように、滑らかにその質を変えている。高スコア者は光沢のある機能的なウェア、低スコア者は一様に色褪せた標準服。
エアモビリティは高スコア者を優先して運び、街頭の広告は、見る者のスコアに応じて、手の届く夢を巧みに見せている。
かつては賞賛していたこの「最適化された社会」が、いかに冷徹な選別の上に成り立っているかを、結城は痛いほど理解した。
自分は、一体どうすればいいのか。
この巨大なシステムを前に、自分一人が、一体何にできるというのか。
一歩、足を踏み出すごとに、自分の足音がやけに大きく響く。昨日まで賞賛していた最適化された街並み――高スコア者を優先して滑るように走るエアモビリティ、見る者のスコアに応じて巧みに夢を見せる広告――その全てが、今は自分を拒絶する巨大な壁のように感じられた。冷たい霧が、視界だけでなく、思考そのものを包み込んでいくようだった。ふと、彼は数年前に亡くなった父のことを思い出していた。父もまた、AI社会の在り方を研究する学者だったが、晩年は、時代に取り残されたように、旧式の小さなアパートで静かに暮らしていた。持病が悪化し、ケアAIが推奨する標準的な治療を受けていたが、その回復は驚くほど緩やかだった。そして、ある朝、眠るように息を引き取ったと、そう聞かされていた。
当時は、ただの病死だと、疑いもしなかった。だが、今ならわかる。『管理された損耗』――父もまた、声なき羊の一匹として、静かに間引かれたのではないか?その疑念は、一度芽生えると、絶望を燃やす燃料となった。父が息を引き取ったと連絡を受けた時の、ケアAIの感情のない合成音声を思い出す。『全てのバイタルデータは規定値の範囲内でした』。あの時感じたのは、ただの悲しみではなかった。システムの正しさの前で、父の生がただの「規定値」として処理されたことへの、声にならない叫びだった。気づけば、硬く握りしめた拳が、痛みを発していた。自分は、この欺瞞を許すわけにはいかない。父のために。そして、父と同じように、静かに消されていくであろう、無数のモータルズのために。
その時、彼のスマートグラスに、一件のメッセージが届いた。
差出人は、不明。
本文には、ただ、一つのアドレスと、短い言葉だけが記されていた。
『雑草の庭で、待つ』
エリス・ノイマンからだった。
結城の心に、再び、小さな火が灯った。
彼は、オラクルの監視網を避けるため、公共の交通機関を乗り継ぎ、メッセージが示す場所へと向かった。
8. 雑草の庭
辿り着いたのは、再開発から取り残された、古い工業地帯の一角だった。
錆びついたフェンスに囲まれた、打ち捨てられた植物園。かつては、世界中の珍しい植物が、完璧な環境制御の下で育てられていたのだろう。だが、今は、管理を失った雑草が、生命力の限りを尽くすかのように、コンクリートの割れ目から天に向かって伸びていた。最適化された都市景観の中にあって、ここだけが、無秩序な、しかし力強い生命力に満ち溢れている。
まさに、「雑草の生い茂る庭」だった。
ガラスがところどころ割れた温室の中央で、エリスは、一人、静かにハーブティーを飲んでいた。彼女の傍らには、旧式の、ネットワークから切り離されたサーバーが、低い唸りを上げて稼働している。
「……来たのね、結城亮」
彼女は、驚いた様子もなく、結城に席を勧めた。
「……あなたは、全てを知っていたんですね」
結城は、絞り出すように言った。「カサンドラのことも、神崎長官のことも……。ですが、一つわからない。あなたほどの人物なら、なぜもっと早く、オラクルそのものを破壊するか、カサンドラのデータを消去しなかったんですか?」
結城の当然の疑問に、エリスは痛みを堪えるように、わずかに目を伏せた。
「……私にも、そうする力があった時期が、確かにあったわ。でも、できなかった。いいえ、しなかったの」
彼女は、自らの過去と対峙するように、静かに語り始めた。
「私と神崎君は、かつて同じ夢を見ていた。AIによって、人類をあらゆる苦しみから解放する、完璧な世界をね。でも、オラクルが『カサンドラ』の原型となる、あの冷徹な結論を導き出した時、私たちの道は分かれた。彼はそれを『必要悪』として受け入れ、私はそれを『非人間的な怪物』だと拒絶した」
エリスの声に、深い悔恨の色が滲む。
「あの時、私は彼の暴走を予見した。そして、彼と決別する直前に、二つの保険を仕掛けたの。一つは、私という創造主や、システムが予測できないイレギュラーな存在を、彼が安易に排除できないようにするための最後の枷、『対消滅規定』。そしてもう一つが、未来の誰かが真実にたどり着くための希望……国立国会図書館の、物理的に隔離された旧式サーバーに、神崎の知らない形でコピーした、カサンドラのオリジナルデータ。それが、あなたに託す『最後の鍵』よ」
彼女は、結城の目を真っ直ぐに見つめ直した。
「私にできたのは、そこまで。システムから完全に締め出された今、私一人では何もできない。だから、あなたのような人が現れるのを、ずっと待っていた。私の目的は、破壊じゃない。私が産み落としてしまった怪物の欺瞞を白日の下に晒し、その上で、あなたたち自身の世代に未来を選び直してもらうこと。それが、私にできる唯一の、そして最後の贖罪なのよ」
そう言うと、エリスは一枚のデータチップを結城に差し出した。
「……これを、どうしろと?」
結城の問いに、エリスの瞳に、再び鋭い光が宿った。それは、諦めではなく、最後の希望に賭ける、強い意志の光だった。
「決まっているでしょう? そのデータチップを手がかりに、国立国会図書館の地下サーバーに眠るカサンドラのオリジナルデータを確保する。そして、その真実を、全世界に暴露するのよ。」
エリスは、そこで言葉を切り、結城の目を見据えた。
「……それができるのは、システムの内側から、その心臓部にアクセスできる、あなたしかいない」
それは、あまりにも無謀な、国家への反逆の誘いだった。
だが、結城の心は、すでに決まっていた。
「……わかりました。やります」
彼は、自分の『社会エントロピー指数』が、淘汰基準値をわずかに超えていることを、すでに確認していた。
もし自分がモータルであれば、真っ先に淘汰の対象になる。
この瞬間、カサンドラは他人事ではなく、彼自身の問題となった。
そして、何よりも、彼は、あの演説で見た、老人の純粋な笑顔を、嘘にしたくなかった。