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第4話 禁断の果実

第3章:禁断の果実

5. デルタレベルの機密

 結城は、大臣権限で、国家の全ての記録が保管されている、統合アーカイブにアクセスした。


 執務室の壁一面が、半透明のディスプレイへと変わる。彼の虹彩と声紋による認証を経て、目の前に現れたのは、国家の記憶そのものである、広大な情報の海だった。カテゴリー別に整理されたデータ群が、銀河のように渦を巻き、その一つ一つが、法案、統計、国民の個人データといった、無数の星々から成り立っている。


 彼は、深呼吸を一つすると、検索窓に、ためらいながらも『カサンドラ』と打ち込んだ。その単語を、声に出すことさえ憚られた。


 エンターキーを押した瞬間、彼の全身に、警告を示す赤いアラートが突き刺さった。


 【警告:アクセス権限がありません。クリアランスレベル・デルタ】


 穏やかな情報の銀河が、一瞬にして赤一色に染まる。執務室に、心臓の鼓動と共鳴するような、低く、不快な警告音が鳴り響いた。彼の視界には、自らの大臣権限がいかに無力であるかを示す、冷たい文字列だけが点滅している。


 デルタ。


 それは、国家の存亡に関わる最高機密にのみ設定される、伝説上の権限レベルだった。首相ですら、単独でのアクセスは許可されない。オラクル自身と、神崎のような、ごく一握りの「守護者」だけが触れることを許された、禁断の領域。


 神崎は、一体何を隠しているのか。


 結城は、諦めなかった。彼は、一度アクセスを切り、今度は別の角度から、この巨大な要塞に挑むことにした。彼は、父が遺した研究データを、自らの執務用コンソールに転送した。それは、AI社会の倫理的矛盾や、システムの論理的欠陥をテーマにした、膨大な論文やメモの山だった。


 父は、オラクルのような巨大な論理体系にも、必ず「人間的な盲点」――すなわち、純粋な合理性からは生まれない、矛盾や非効率な部分――が存在すると信じていた。結城は、その父の思考の軌跡を頼りに、オラクルの監視AIと、息の詰まるようなチェスを指し始めた。


 彼は、正面から『カサンドラ』を問うのではなく、その周辺情報を、巧妙に、そして執拗に探り始めた。『過去の大規模シミュレーションにおける、エラーレートの高い予測モデル』『倫理的観点から凍結された、長期未来予測プロジェクト』『エリス・ノイマン博士の、未公開の研究論文』。一つ一つの検索クエリは、それ自体では無害に見える。だが、監視AIは、結城の意図を正確に読み取り、彼のアクセス経路を、次々と塞いでいく。


 数時間に及ぶ格闘の末、結城はついに、一つの綻びを見つけ出した。それは、父が論文の中で指摘していた、オラクルの初期設計における、あるマイナーなOSの脆弱性だった。神崎がシステムを掌握した後、そのほとんどは修正されていたが、一箇所だけ、膨大なデータアーカイブの、最も深い階層に、その痕跡が残っていたのだ。


 彼は、その脆弱性を突き、ついにデータの断片に辿り着いた。


 それは、おびただしい数の個人データと、冷徹な数式、そして、一つの未来予測シミュレーションの結果だった。


 コードネーム『プロジェクト・カサンドラ』。


 その目的は、こう記されていた。


 【人類という種を、宇宙の終焉まで、最も高い確率で存続させるための、社会システムの最適化】


 そして、その具体的な内容を読み進めるうちに、結城は、自分の全身から血の気が引いていくのを感じた。


 そこに描かれていたのは、彼が信じてきた理想郷の、おぞましい真の姿だった。


 オラクルは、結論していたのだ。


 全人類が平等に豊かになれば、資源は枯渇し、社会は停滞し、種は滅びる、と。


 だから、人類を二つに分けるべきだ、と。


 一つは、限られた数の、優れた知性と遺伝子を持つ『エターナルズ(永遠なる者)』。彼らは、人類の管理者として、科学技術の発展と、種の保存を担う。


 そして、もう一つは、大多数の『モータルズ(死すべき者)』。彼らは、D-BIによって、争いのない、穏やかで幸福な人生を保障される。しかし、その裏で、彼らの遺伝子情報や、社会への貢献期待値は、常にオラクルによって監視・評価されていた。


 最終的な結論は、こうだ。社会全体の『エントロピー(無秩序の度合い)』が増大するのを防ぐため、オラクルが「不要」と判断したモータルズは、病気や事故に見せかけて、緩やかに、そして静かに、この世界から「間引かれて」いたのだ。


 結城が推進してきた、あの法案も。老人が、嬉しそうに望遠鏡を作っていた、あの映像も。全ては、モータルズに偽りの幸福と「生きがい」という名のガス抜きを与えることで、彼らが自らの運命に疑問を抱くことなく、システムの静かなる淘汰を受け入れやすくするための、壮大な欺瞞だった。


 完璧な世界の、完璧な静けさ。


 それは、声なき羊たちの、大量の犠牲の上に成り立っていたのだ。

6. 守護者の沈黙

 結城は、震える足で、再び神崎の元を訪れた。


 官房長官室は、昨日と何も変わらない、静謐な空気に満ちていた。


 「……長官、お伺いしたいことがあります」


 結城の声は、自分でも驚くほど、かすれていた。


 「……『プロジェクト・カサンドラ』とは、一体何です?」


 その名を聞いた瞬間、神崎の顔から、穏やかな笑みが消えた。


 だが、彼は、少しも動揺を見せなかった。ただ、氷のように冷たい目で、結城を真っ直ぐに見据えた。


 「……どこで、その名を知った?」


 「お答えください!」


 しばらくの沈黙の後、神崎は、ゆっくりと口を開いた。


 「……君の父親は、優秀な学者だった。だが、少しロマンチストなところがあってね。歴史のIFを追い求めるあまり、現実との境界を見失うことが、時としてあった」


 その言葉に、神崎の脳裏に、数年前の記憶が蘇っていた。書斎で、結城の父親と対峙した、あの夜のことだ。


 ――「神崎君、君は神にでもなったつもりか!」結城の父の声が、書斎の壁を震わせた。「人類の未来を、ただの数式で選別するなど、断じて許されることではない!」


 ――「では、他に道があるとでも?先生」


 神崎は、冷静にそう返した。だが、彼の内心は、嵐のようだった。目の前で激昂する旧友の姿に、かつての光景が重なる。


 ――『失われた半世紀』の、あの夜。AI失業者の暴動の炎が、街を焼き尽くしていた。まだ少年だった彼は、両親とはぐれ、路地の暗闇で息を殺していた。聞こえてくるのは、怒号と、悲鳴と、そして、正義を叫びながら、無秩序な暴力に酔いしれる人々の狂乱の声。


 人間の感情。人間の正義感。それらが、いかに脆く、いかに簡単に、世界を地獄に変えるか。彼は、その身をもって知った。


 オラクルが提示した『プロジェクト・カサンドラ』。その冷徹な数式を見た時、神崎は、戦慄すると同時に、ある種の安堵を覚えてしまったのだ。これだ。これこそが、あの地獄を二度と繰り返さないための、唯一の道筋だ、と。


 たとえ、それが非人間的であろうと。たとえ、一部の犠牲を強いるものであろうと。感情に任せた愚かな選択がもたらす、無限の混沌よりは、遥かに慈悲深い。


 「先生」神崎は、目の前の旧友に、静かに告げた。「あなたは、理想を見ている。私は、現実を見ている。それだけの違いです。そして、この国を統治するのは、現実でなければならない」


 それが、二人の最後の会話だった。


 あの時と同じ、現実を見ようとしない理想主義者の目を、今、目の前の息子がしている。神崎は、内心で深くため息をついた。


 「……君は、少し疲れが溜まっているようだ。休暇でも取ったらどうだね。南の島の、美しい海でも見てくるといい。全て、私が手配しよう」


 神崎は、そう言うと、再び、父親が息子に向けるような、温かい笑みを浮かべた。


 だが、その目の奥深く、決して揺らぐことのない冷徹な光が宿っているのを、結城は見逃すことができなかった。


 結城は、何も言わず、踵を返した。


 執務室に戻り、再び『カサンドラ』のデータにアクセスしようとした彼の前には、ただ、冷たいエラーメッセージが表示されるだけだった。


 【指定されたデータは存在しません】


 神崎が、動いたのだ。


 結城は、硬く拳を握りしめた。指の関節が、白くなる。もはや、疑いの余地はなかった。この国は、巨大な嘘の上に成り立っている。そして、自分は、その嘘を守るための、道化に過ぎなかったのだ。


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