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第3話 不協和音

第2章:不協和音

3. 祝賀会の女

 法案が可決された夜、都心の超高層ホテルで、祝賀会が催された。


 会場は、地上二百メートルに浮かぶガラスの箱庭だった。床から天井まで続くパノラマウィンドウには、オラクルによって完璧に最適化された首都の夜景が、まるで宝石を敷き詰めたように広がっている。無数のエアモビリティが、プログラムされた軌道を寸分の狂いもなく滑り、光の川となって流れていく。その光景は、人間が作り上げた秩序という名の芸術品だった。


 天井のシャンデリアは、それ自体が自律思考を持つ照明AIであり、人々の会話の熱量や感情の起伏を感知して、リアルタイムで最も心地よい光量と色温度に自らを調整している。会場に流れる音楽もまた、招待客全員の個人プロファイルから最大公約数的な心地よさを算出して生成された、決して誰も不快にさせない、無味無臭の旋律だった。


 「結城大臣、素晴らしい演説でしたな。まさに、我々が目指すべき未来そのものだ」


 年配の与党議員が、満面の笑みで結城にグラスを差し出す。彼の腕には、最高ランクを示すプラチナのスコアバンドが輝いていた。


 「ありがとうございます。皆様のご協力の賜物です」


 結城は、完璧な笑顔で応じた。耳に届くはずの喧騒が、まるで厚いガラスを一枚隔てたかのように遠い。給仕AIが、寸分の狂いもない動きで招待客たちの間を滑るように移動していく。そのトレーの上には、分子レベルで栄養バランスが計算されたフィンガーフードと、客の健康状態に合わせてアルコール度数が微調整されたシャンパンが並んでいた。全てが、正しい。全てが、最適化されている。


 ふと、給仕AIの完璧な軌跡が、先日見た法案賛成率のグラフと奇妙に重なった。99.8%。手の中にあるグラスの、ずしりとした重さと冷たさだけが、やけに現実味を帯びていた。なぜだろう。この完璧な空間にいると、時折、自分が現実から乖離していくような、奇妙な浮遊感に襲われる。まるで、自分という存在もまた、この美しい夜景を構成する、無数の光点の一つに過ぎないかのように。


 その時だった。


 「――結城亮大臣ですね?」


 凛、とした声に振り返ると、そこに、一人の女が立っていた。


 その存在は、この完璧に調和した空間の中で、唯一のノイズのように異質だった。年の頃は、神崎と同じくらいだろうか。しかし、その佇まいは、この華やかな場所にいる誰とも違う。高価なドレスでもなく、かといって貧しいわけでもない、機能性だけを追求した、どこか研究者のような雰囲気を漂わせる濃紺の衣服。宝飾品の類いは一切身につけていない。彼女の周囲だけ、まるで照明AIの計算から外れているかのように、微かな影が落ちているようにさえ見えた。


 そして、何よりも印象的だったのは、その瞳だった。


 悲しみと、怒りと、そして、何かを諦めたような、深い知性が宿る瞳。その瞳に見つめられると、結城は、自分の内面の、まだ言語化されていない違和感の正体を、全て見透かされているような感覚に陥った。


 「……失礼ですが、どちら様で?」


 結城は、相手の瞳から目を逸らさぬよう、僅かに声のトーンを落として尋ねた。招待客リストに、彼女のような人物がいた記憶はない。セキュリティはどうなっているんだ?


 女は、名乗らなかった。ただ、結城の目を真っ直ぐに見つめ、囁くように言った。


 「……あなたの演説、聞きました。とても、美しかった。まるで、かつての私たちを見ているようで」


 「……私たち?」


 「ええ」と女は頷いた。「完璧な世界を夢見た、愚かな理想主義者たち、です」


 女の言葉の意味が、結城には理解できなかった。その言葉は、彼の信じる世界への、静かだが明確な侮辱を含んでいた。


 女は、結城の戸惑いを察したように、ふっと微笑んだ。だが、その瞳は少しも笑っていなかった。


 「……一つ、お聞きしても? 最適化された砂漠と、雑草の生い茂る庭。……あなたが本当に住みたいのは、どちらかしら?」


 それは、まるで禅問答のようだった。最適化された砂漠。それは、今自分がいるこの完璧な世界の謂いか。では、雑草の庭とは? 混沌、無秩序、非効率――『失われた半世紀』の悪夢そのものではないか。


 結城が答えに窮していると、女は、彼のグラスにそっと自分のグラスを重ねた。乾杯の仕草だったが、そのカチン、という硬質な音は、まるで弔いの鐘のように、結城の耳には聞こえた。


 「……気をつけて。そのグラスを満たしているのは、本当に美酒かしら」


 女はそれだけを言うと、結城の耳元で囁いた。その声は、周囲の喧騒から切り離され、異常なほど鮮明に彼の鼓膜を震わせた。


 「もし、あなたが本当に『雑草の庭』に興味を持つ日が来たら、思い出して。横浜の湾岸エリアに取り残された、古い植物園のことを」


 そして、人混みの中へと静かに消えていった。まるで、幻だったかのように。


 後に残されたのは、結城と、彼の胸に深く突き刺さった、謎の言葉だけだった。彼は、手の中のグラスを見つめた。完璧に計算された液体が、静かに揺らめいている。それは本当に、美酒なのだろうか。それとも――。

4. カサンドラの悲鳴

 翌日、結城は執務室で、昨夜の女の言葉を反芻していた。


 「最適化された砂漠と、雑草の生い茂る庭……」


 意味がわからない。だが、その言葉は、彼の心に巣食った違和感の正体を、的確に言い当てているような気がした。


 彼は、執務室のセキュリティレベルを最大まで引き上げると、極秘回線を使って、ある人物に連絡を取った。


 ディスプレイに映し出されたのは、彼の大学時代の恩師であり、今も時折、非公式なアドバイスを受けている、老政治学者の姿だった。


 「……先生、昨夜の祝賀会に、奇妙な女性が……」


 結城が、女の人相を説明すると、老教授は、目に見えて顔色を変えた。


 「……まさか。結城君、その女性は、何と言っていた?」


 「『最適化された砂漠』がどうとか……。それから、私の演説を『かつての私たち』のようだ、と」


 老教授は、しばらくの間、何かを深く考え込んでいたが、やがて、意を決したように口を開いた。


 「……結城君、これから私が話すことは、他言無用だ。……その女性は、おそらく、エリス・ノイマンだろう」


 「エリス・ノイマン……?」


 聞いたことのない名前だった。


 「……我々の世代では、知らぬ者はいない天才だよ。オラクルを、その揺り籠から育て上げた、本当の意味での『生みの親』だ。……そして、神崎恭吾のかつての、最高のパートナーでもあった」


 「神崎長官の……!?」その事実に、結城は思考が白く染まるような感覚に陥った。言葉を発しようとして僅かに開いた唇が、そのまま固まった。


 「そうだ。彼らは二人で、この国のシステムを設計した。だが、ある時点を境に、エリスは、全ての公的な記録からその姿を消した。……まるで、初めから存在しなかったかのように。理由は、誰も知らない。知っているのは、おそらく神崎君だけだ」


 結城の頭の中で、バラバラだったピースが、一つの形を結び始めようとしていた。


 エリス・ノイマン。オラクルの生みの親。神崎の、消されたパートナー。


 彼女は、なぜ今、自分の前に現れたのか。


 結城は、老教授に礼を言うと、回線を切った。


 彼は、震える手で、自分の父親が遺した、膨大な研究データにアクセスした。彼の父もまた、AI社会の在り方を研究する学者だった。


 キーワードに『エリス・ノイマン』と入力する。


 数秒の検索の後、一つの暗号化されたファイルがヒットした。ファイル名は、『共同研究者E.N.への私信』。


 結城は、ゴクリと唾を飲んだ。


 ファイルを開くと、そこには、父がエリスに宛てた、未送信のメールが遺されていた。


 『……送るべきか迷ってる。でも、書かずにいられなかった。君が話してくれた“カサンドラ”――あの非人道的な計画。神崎恭吾は、それを隠し通そうとしていた。今も、あの沈黙の中から“悲鳴”が聞こえてくる気がする』


 父の言葉が、結城の胸に突き刺さった。非人道的な計画。隠蔽。悲鳴。


 昨夜、エリスが彼のグラスに自分のグラスを重ねた、あの乾いた音。祝福の席で、なぜ彼女はあんなにも悲しい目をしていたのか。結城は、あの音を「弔いの鐘」と感じた自分の直感が、間違っていなかったことを悟った。あの音は、この完璧な世界に捧げられた、哀悼の響きだったのだ。


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