第2話 完璧な世界
第1章:完璧な世界
1. 完璧な世界の演説
西暦2125年7月3日、東京。
国会議事堂は、深海のような静寂に包まれていた。かつて、怒号と野次、そして人間の体温が渦巻いていた議場に、今やその面影はない。議員席は半数以上が空席となり、出席している議員たちも、手元のディスプレイに流れるオラクルの補助情報に視線を落とし、私語一つ交わさない。彼らの仕事は、もはや議論ではなく、AIが提示する「最適解」を、滞りなく承認することに変わっていた。空気さえも、高性能な空調システムによって完璧に管理され、感情の揺らぎを誘発する二酸化炭素濃度や不快指数は、常にゼロに近い値を示している。
その静寂の支配者として、演壇に立つ一人の男がいた。
内閣府特命担当大臣、結城 亮。32歳。
AI時代の申し子。D-BI導入後の新しい価値観の中で育ち、その明晰な頭脳と理想に燃えるカリスマ性で、史上最年少の大臣にまで上り詰めた、時代の寵児。彼の仕立ての良いスーツは、環境負荷ゼロのバイオ素材で作られ、その胸には、議員バッジと共に、彼の高い社会貢献スコアを示す小さな青い光点が、控えめに、しかし誇らしげに灯っていた。
「――以上が、『全世代型デジタル・ベーシックインカム第二期拡充法案』の趣旨であります」
結城の声は、静かだが、不思議な熱を帯びて議場に響き渡った。マイクやスピーカーは、彼の声紋と感情の波形をリアルタイムで分析し、最も聴衆の心に届く周波数へと自動で最適化している。
法案の骨子は、こうだ。現在の「社会貢献スコア」の評価基準を、さらに個人の「自己実現」へとシフトさせる。AIが、個人の過去の趣味や、本人さえ忘れていた興味関心を深層データから掘り起こし、「もう一度、こんなことに挑戦してみませんか?」と、新しい生きがいを発見するための“きっかけ”を提供する。それは、人々を単なる『幸福な家畜』ではなく、『主体的に幸福を追求する人間』へと引き上げるための、次なるステップだった。
「皆様、お手元のディスプレイをご覧ください。これは、本法案の先行テストプログラムに参加された、斎藤義塾氏、82歳のケースです」
結城が促すと、議員たちの目の前に、一人の老人の映像が映し出された。彼は、かつて小さな町工場を経営していたが、AIによる最適化の波に乗り切れず、全てを失った。スコアも低く、無気力な日々を送っていた。
「オラクルは、彼の幼少期の通信教育の記録から、彼が天文学に強い興味を抱いていたことを発見しました。そして、彼にこう提案したのです。『あなたの持つ金属加工の技術と、天文学への情熱を組み合わせ、手作りの天体望遠鏡を、未来の子供たちのために遺してみてはいかがでしょう』と」
映像の中の老人は、今、子供の頃に夢中になったという天体望遠鏡を、再びその手で作り上げていた。その表情は、スコアや効率といった価値観から解放された、純粋な喜びに満ちていた。彼の工房には、近所の子供たちが集まり、目を輝かせながら、その手つきを見守っている。彼のスコアは、今や地域社会への貢献によって、上昇を続けていた。
「我々は、労働から解放された。しかし、それは、生きる目的まで失っていいということにはなりません。本法案は、全ての国民が、自らの手で、自らの価値を再び見出し、輝ける社会を創るための、次なる一歩となることを、私は確信しております!ご清聴、ありがとうございました」
演説が終わると、議場は、万雷の拍手に包まれた。
もはや、そこに反対する者など一人もいない。法案は、この後、全会一致で可決されるだろう。いや、正確に言えば、オラクルが提示したこの「最適解」を、ここにいる生きた承認印鑑たちが、追認するだけだ。
結城は、議場の光がいつもより少しだけ明るく感じられる中、自らの口角が自然に上がるのを感じた。
完璧な世界。完璧な政策。そして、それを導く、完璧なシステム。
彼は、この世界の正しさを、微塵も疑っていなかった。
2. 官房長官室の誓い
首相官邸、官房長官室。
黒檀の書架に、古今東西の古典が整然と並んでいる。古書のかすかなインクの匂いと、部屋の隅で稼働する最新鋭の空気清浄機が発する微かなオゾンの匂いが、奇妙に混じり合っている。この部屋の主の思想を、そのまま体現したかのような空間だった。
「見事な演説だった、結城君」
部屋の主、内閣官房長官、神崎 恭吾は、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めたまま、穏やかな笑みを浮かべた。62歳。白髪混じりの髪を隙なく整えている。
その瞳は、ただ静かに、結城を見つめていた。
それは、かつて『失われた半世紀』の炎と混沌を映し、人間の愚かさの全てを焼き付けた瞳だった。理想が、いかに容易く熱狂と暴力に変わるかを知り、全ての光を飲み込んで、今はただ、静かな湖面のように、あらゆる感情の揺らぎを吸収してしまう、深い、深い瞳だった。
彼は、結城にとって、政治の師であり、父親のような存在だった。その関係は、結城がまだ無名の学生だった十数年前に遡る。
当時、若手官僚だった神崎が主催した討論会でのことだ。AIがもたらす未来というテーマに対し、多くの学生が、ありきたりな賛辞や、感情的な批判を述べるだけだったが、結城だけが違った。彼は、AIがもたらす光と影を冷静に分析し、その上で「人間の主体性とは何か」という、誰よりも深く、そして根源的な問いを、熱を帯びた言葉で論陣を張ったのだ。
その姿に、神崎は若き日の自分と、そして、自分が持ち得なかった眩いほどの純粋な理想の輝きを見た。この輝きを、この手で導きたい。そして、この危うい輝きが道を踏み外さぬよう、自分が守らねばならない。
神崎は、討論会の後、自ら結城に声をかけ、「君のような男を待っていた」と、彼の後見人となることを申し出た。その日から、結城にとって神崎は、乗り越えるべき壁であり、絶対的な指針だった。
「ありがとうございます。これも全て、長官にご指導いただいたおかげです」
結城は、深く頭を下げた。
「……礼には及ばんよ。私は、君という才能を見出し、磨き上げるという、最もやりがいのある仕事をしたに過ぎん」
神崎は、ゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる、寸分の狂いもなく設計された首都の景観に目を向けた。
「……美しいと思わんかね、この静けさは。かつて、この国が『失われた半世紀』の混沌の中にあったことなど、今の若い世代は誰も信じんだろうな」
「はい。歴史の教科書で読んだだけでは、想像もつきません」
「そうだろう、そうだろう」
神崎は、その言葉に小さく頷き、目を細めた。
「……忘れるな、結城君。システムが完璧であればあるほど、それを疑う人間は、危険な不協和音となる。君は、その不協和音を許さない、システムの守護者でなければならない。……この国の、静かなる秩序の、守護者だ」
その言葉は、まるで祝福のようであり、同時に、呪いのように結城の胸に響いた。
「……肝に銘じます」
結城は、力強く答えた。
神崎は、結城の肩にそっと手を置いた。その指先が、氷のように冷たかったことを、結城は妙に鮮明に記憶している。