第1話 届かなかった手紙
プロローグ:届かなかった手紙
男は、死期を悟っていた。
ケアAIが毎日報告する、最適化されたバイタルデータは、今日も「正常値の範囲内」だと告げている。だが、男自身の身体は、魂は、日に日にその熱を失っていくのを、確かな実感として感じていた。緩やかに、計画的に、世界からその存在が間引かれていく感覚。
旧式のディスプレイに、書きかけのメールが表示されている。宛先は、エリス・ノイマン。かつて同じ理想を語り合った、ただ一人の盟友。
『……送るべきか迷ってる。でも、書かずにいられなかった。君が話してくれた“カサンドラ”――あの非人道的な計画。神崎恭吾は、それを隠し通そうとしていた。今も、あの沈黙の中から“悲鳴”が聞こえてくる気がする』
指が、震えて動かない。この手紙を送れば、彼女を危険に晒すことになる。そして、何よりも、自分の息子、亮の未来を。あの子は、神崎にその才能を見出され、システムの光の中を歩んでいる。父である自分が、その輝かしい道を閉ざしてはならない。
だが、それでも。
この声なき悲鳴を、誰かが記憶しなければならない。この完璧な世界の静寂が、どれほどの犠牲の上に成り立っているのかを。
男は、最後の力を振り絞り、キーを叩いた。
『――亮を、頼む』
しかし、その指が送信ボタンに届くことはなかった。彼の意識は、静かに、深く、システムの管理する闇の中へと沈んでいった。ディスプレイの上で、未送信のメールだけが、墓標のように、静かに光を放ち続けていた。
序章:血と涙の上に築かれた、静けさ
西暦2125年。世界は、一見すると完璧なほどの静けさと、ガラス細工のような繁栄を享受していた。だが、その静けさは、血と涙の海の上に築かれた、脆く危うい蜃気楼に過ぎなかった。全ての始まりは、物語の約80年前に起こったAI革命――後に歴史家が、ある者は畏敬を込めて『神々の黎明』と、ある者は呪詛を込めて『労働の終焉』あるいは『失われた半世紀』と呼ぶ、大混乱の時代に遡る。
当初、人間の仕事を補助する便利な召使いだったAIは、いつしか主人の領域を侵し始めた。知性の最後の聖域と信じられていた「創造性」さえもがデジタルに再現され、世界から「労働」という、人類が数万年かけて築き上げてきた営みの概念そのものを根こそぎ奪い去ったのだ。「AI失業」という静かなる疫病は瞬く間に世界を覆い尽くし、社会不安という高熱は、やがて一部の絶望した人々を、AI関連施設を破壊して回る「ネオ・ラッダイト運動」へと過激化させた。錆びついた鉄パイプを握りしめた群衆が、最新鋭のデータセンターの壁を叩く。その乾いた音は、時代の断末魔の叫びのようだった。
この未曾有の混乱を収拾したのは、皮肉にも、混乱の原因そのものであるAIだった。
各国政府は、自国の統治能力の限界を認め、社会の運営を、より高度な政策決定AIに委ねる道を選択した。日本では、汎用人工知能『オラクル』がその役を担った。オラクルは、人間の感情や利己的な判断を排し、ただ「社会全体の幸福の最大化」という目的のためだけに、冷徹なまでに合理的な政策を次々と実行していった。
その最終的な到達点が、『全世代型デジタル・ベーシックインカム(D-BI)』と『社会貢献スコア』を組み合わせた、新たな社会システムである。
AIによる自動化された生産活動が生み出す莫大な富は「クレジット」として全国民に無条件で分配され、飢餓と貧困は地上から根絶された。人々は、もはや生きるために働く必要はない。
その代わり、人々の価値は、AIが推奨する創造的な活動や社会貢献への参加度を示す「スコア」によって序列化された。高いスコアを持つ者は、より快適な住居、より高速な情報アクセス、より豊かな娯楽といった、質の高い生活を享受できる。一方、低いスコアの者は、最低限の生活は保障されるものの、社会の様々な恩恵からは緩やかに、しかし確実に遠ざけられる。
人々は、このシステムを熱狂的に支持した。
『失われた半世紀』の混沌に疲弊しきった彼らにとって、AIが示す「最適解」は、絶対的な福音に思えたのだ。誰もが、自分の好きなこと、得意なことで社会に貢献し、正当に評価される。争いも、飢えも、理不尽もない、完璧で公平な世界。
人類は、ついに理想郷を手に入れたのだ、と。
――そして、物語は、この完璧な世界の中心で、一人の若き大臣が、輝かしい未来を高らかに宣言する場面から、その幕を開ける。