一歩進んで、一歩下がる
莉央は、幼稚園に行きたくなかった。許されるならば、ずっと家で絵本を見たり、お人形遊びをしていたかった。
だけど、ずっと家にいるのは、良いことではないのはわかっている。子どもは外に出てナンボとお母さんも言っていた。
毎日決まった時間に、家の前に幼稚園の送迎バスが来る。大きな窓から、お友達が澄ました顔で莉央を見る。嫌だ、行きたくないと莉央は反射的に思った。
莉央が幼稚園バスに乗れなかった日は、おばあちゃんが手を繋いで登園してくれた。諦めて、家で二人で過ごすようなことはしない。
その日は、どんよりとした雲が浮かんでいた。莉央は、いつもに増して幼稚園に行きたくなかった。
どうにかして幼稚園に行かない方法はないか考えてみたけど、すぐには思いつかなかった。少ししたら、熱が出たら行かなくて済むとひらめいた。だけど、今の莉央には、どうすることもできなかった。ただただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
9時頃、おばあちゃんに手を引かれて家から出た。おばあちゃんは莉央に何か声をかけるわけでもなく、前だけを見つめて歩いた。つないだ手のぬくもりはあったかいのに冷たい。莉央は顔を伏せて、おばあちゃんに置いていかれないように力強くゆっくりと歩いた。
家から幼稚園までは歩いて15分くらいだ。莉央は憂鬱で仕方がなかった。家の近所にあるパン屋さんの前を通るまではまだ良かった。パンが焼けたいい匂いがするからだ。その時だけは、不思議と嫌なことを忘れられた。
歩いていると、幼稚園が迫ってくる気配がした。そうなると、いよいよ行きたくない気持ちもピークに達した。
莉央は「うぅ……」と低い声を出した。おばあちゃんは振り返らない。今なら本当に熱がありそうな気さえした。せめてもの抵抗で、地面を強く蹴る。
何もしなければこのまま幼稚園についてしまう。
追い詰められた莉央は考えた。足を前に出すから、目的地に着いてしまう。
だったら、一歩進んで、一歩下がることを繰り返したら、永遠に幼稚園につかないのではないかと。
良いアイデアだと思った。立ち止まったままではいられないからこそ、足は常に動かしている必要がある。
前、後ろ、前、後ろ。うん、いい感じだ。早速、実行に移してみることにした。
すると先程まで無言だったおばあちゃんが、「どうしたの?」と振り返って莉央に聞いた。繋いだ手と手がピンと伸びた。
莉央は素直に、一歩進んで、一歩下がる作戦をおばあちゃんに話した。実行に移すためには、おばあちゃんの協力が必要不可欠だったからだ。
莉央が恐る恐る説明すると、温厚なおばあちゃんの顔が険しくなった。
「……いいから、行くよ!」
目が大きく見開いた。おばあちゃんは少しも笑っていなかった。
あ、もうダメなんだ。逃げられないんだと莉央は悟った。人生には、どうにもならないことがあることを今知った。
莉央はおばあちゃんの手を離すことができない。あと、数十メートル先にある幼稚園の門を、一緒にくぐらなくてはならない。
莉央は思った。早く大人になりたい。大人になって、幼稚園に行かなくても良いようになりたい。
大人になったら、おばあちゃんを喜ばせる方法も自然と思いつくだろう。
今にも泣き出しそうな莉央は、何かに縋り付かないと、一人では立っていられなかった。おばあちゃんの右手を強く握りしめた。きゃあきゃあと楽しそうな笑い声が、前方からうっすらと聞こえてきた。莉央が一歩進むたびに大きく耳の中に響いた。