竜に選ばれた娘
〈赤竜を駆る姫〉が帰還した次の日の王都は、まるで彼女を言祝ぐように温かく晴れ、人々を戸外へといざなった。
家族連れやら、祭りの噂を聞きつけてやって来た旅芸人やらでごった返している芝生の広場の一角に、ユージンの姿があった。風を避けて木陰に腰を下ろし、膝の上には、刻んだ根菜とひき肉をこねて一口大に丸め、油で揚げて甘辛いタレを絡めた料理の皿を乗せている。
ユージンのいる木陰は広場の北の端にあり、少し高くなっている反対側には、大きな野外劇場が建っていた。柱の飾りに施された豪勢な彫刻と、王宮を背にした立地から、それが王家の庇護の下で建設されたものである事がわかる。
ちょうど新たな演目が始まる所で、広場を訪れた客は皆、ユージンの前を通り過ぎて劇場の方へ流れていった。
劇を見る気はなかったが、王宮のある丘から吹き下ろす風に乗って、役者の声は、自然とユージンの耳に入ってきた。
汞狼族との戦いを終え、クィヤラートが少しずつ国家として形を成し始めた頃、西の辺境に未知の熱病が現れた。
咳や身体のだるさといった風邪のような症状が数日続いた後、突然、全身が茹だつような高熱に襲われ、呼吸系に異常をきたして死に至るというこの病は、長引いた戦で傷つき、疲弊した国民達の間にあっという間に広がっていった。
クィヤル熱と名付けられた熱病は、それまでの流行り病とは比べものにならない勢いで国土全域に広がり、王都に集められた選り抜きの医師の努力もむなしく、王位継承権一位の王子の命まで奪っていった。
民のおよそ半分と、生まれたばかりの王子を失い、絶望の淵に突き落とされた王は、クィヤル熱の被害を食い止めるために奔走する傍らで、夜、寝所で一人になった時には、ひたすらに神々に向けて祈った。──我々の何を捧げても良い、どうか、新たな歴史を歩み始めたばかりのこの国を、病で滅びに導かないでくれ、と。
有効な対策を打ち出せないままクィヤル熱はさらに猛威を振るい、王子の死で塞ぎ込んでいた王妃に続いて、頑健な王弟も罹患した。
そしてついに、疲れが祟ったのか、王自身も高熱を出して倒れた。
政務はおろか、寝所から起き上がる事さえ難しくなり、万策尽きたかと思われた時……、巨大な赤い竜が王都に舞い下りた。
劇場を取り囲む人々の間からどよめくような歓声が上がった。
食事を終え、木の幹に背中をあずけて立ち、ルィヒを待っていたユージンは、ふっとそちらに顔を向けた。
どうやら、赤竜を模した大がかりな舞台装置が登場したようだ。集まった人々の頭の間から、赤い張り子のようなものが見えた。
顔を上げたついでに、ルィヒが近くまで来ていないか、周囲の様子を窺ってみたが、さっきまでと変わらず、身なりの良い王都の民達が、まるでクィヤル熱など恐れるに足りないと見せつけるように、大口を開いて飲み食いし、喋りながら行き交っているだけだった。
赤竜が現れた時の状況について、詳細に記した書物は残っていない。病を免れ、仕事をする事の出来た書記官は、国内各地へ赴き、クィヤル熱への対抗手段となりそうな情報を見つけて王宮に報告する義務を負わされていたからだ。
赤竜が舞い下りたのは、当時、遺体安置所として大勢の骸が並んでいた空き地だと伝わっている。
それまでクィヤラート王国内には自生していなかったロウミという薬草を周囲の地面にはびこらせて巨躯を横たえていた赤竜は、一報を受けた王が病を押して駆けつけると、月のような柔らかい黄色をした目を開いた。
そして、王の姿をみとめると、ただひと言、
『吾に死を見せよ』
と口にしたと伝えられている。
クィヤラート王国内には元々、野生の竜──今では赤竜と区別するために「小竜」と呼ばれる種だが──が生息しており、彼らは神聖な獣として、背にまたがって飛ぶ事も、肉や皮や、牙を売り買いする事も禁じられていた。そのため、彼らとはまったく違う、みずみずしい真紅に輝く鱗を持った赤竜は、神々が王の祈りに応えて遣わした使者だと考えられ、丁重なもてなしを受けた。
また、医師達がロウミの薬効を調べた所、クィヤル熱の感染初期に口にする事で発咳を抑え、解熱の作用をもたらす事がわかった。栄養価も高く、日に三度、食事とともに摂取する事で、王は徐々に体力を取り戻し、ひと月ほどで政務への復帰が叶った。
ロウミはもう一つ、王家にとって大きな希望をもたらした。クィヤル熱に打ち勝ち、公務に復帰した王妃が、新たに子を宿している事がわかったのだ。
王妃は十月ののち、玉のような女児を産む。
その子は赤い髪と瞳を持ち、生まれながらに竜と心を通わせる不思議な力を持っていた。
赤髪の王女には、もう一つ、普通の人間とは大きく違う点があった。
十五、六の齢になると成長が止まり、娘の姿のままで何十年も生きたのだ。その間、病に罹る事はなく、命に関わるような傷を負っても奇跡のような生命力でたちどころに治癒した。
彼女はやがて、〈赤竜を駆る姫〉として、赤竜とともにクィヤル熱の死者を弔う旅に出た。
種族の違いのためにクィヤル熱の被害を免れた汞狼族からは、精鋭の戦士が一人選び出され、護衛として彼女の旅に付き添った。
途方もなく長い時間をかけて国中を巡り、友や家族を失った民の慟哭を受け止め、クィヤル熱と戦う力を授けるロウミの粥を振る舞い続け……、そして、百年余りが過ぎた頃、赤竜は、王都の北西にあるシャノカーンの森で歩みを止めた。
シャノカーンの森の最深部は人の立ち入りを許さない領域だ。鋸の歯のようにそそり立った岩がぐるりと円を描いて並び、侵入者を拒んでいる。森の周縁では薬草や木材などの資源が採れるため、最深部に入る道を見つけようと試みる者も大勢いたが、成功した試しはなかった。
赤竜は、岩壁の前に立つと、大地を揺るがすような咆哮を上げた。──その途端、硬い岩壁がまるで命を宿したようにぶるぶると震え始め、巨人の手に押しのけられるようにして左右に分かれた。
その石扉の向こうが、赤竜が長い休眠期を過ごす場所であり、また、歴代の〈赤竜を駆る姫〉の亡骸が眠る墓域だった。どんな病にも傷にも命を脅かされず、娘の姿のままで長い時を生きる〈赤竜を駆る姫〉は、赤竜が眠りにつく時、それに呼応するように、静かに死を迎えるのだった。
初代の〈赤竜を駆る姫〉が息を引き取った時、かつて赤竜が降り立った地にいくつもの結晶の柱が表出した。美しく透きとおり、かすかに赤みをおびたこの結晶には、〈赤竜を駆る姫〉が目にした光景や、在りし日の人々と交わした会話が刻み込まれており、素手でふれる事で、誰しもがそれを自らが見聞きした事のように体験する事が出来た。
後にノェシウム鉱石と名付けられた、この結晶が表出した一帯は、祭祀場として整備され、現在でも遺された人々の心の傷を癒やすために、そして、クィヤル熱の研究を進めるために、大切に保護されている。
王家には、それからも何百年かに一度、赤い髪と瞳を持つ女児が生まれた。
そうして生まれた娘は、十二になるまで王宮で育てられた後、汞狼族の戦士を一人連れてシャノカーンの森に向かい、目覚めた赤竜とともに弔いの旅に出るようになった。
これが、現代まで続く〈赤竜を駆る姫〉の風習である。
割れんばかりの拍手に包まれて舞台の幕が下りるのを、ユージンは、どこか冷めた思いで眺めていた。
(衛生観念もなっていないのに神頼みか)
ため息をついた時、ふいに、ユージンの傍らに人影が現れた。
すらりとした体つきの若い女だった。ちらちらと光をはじく糸で、派手な刺繍を施した群青色の布を頭と腰に巻きつけている。額から顔にかけて黒の薄絹が垂らされ、目鼻立ちは判然としなかった。
流しの踊り子なのだろう。手首には、しゃらしゃらと音を立てる細い腕輪をいくつも重ねてつけており、唇には艶やかな紅を引いている。
衣の色が暗いせいか、顎や首筋の白さが際立った。
なんとも言えない気まずさを感じて、ユージンがさり気ない風を装って、その場を離れようとした時、女が予想だにしない行動を取った。──口を手で隠してくすっと笑ったかと思うと、次の瞬間、両手を腰に当てて豪快に笑い始めたのだ。
「おい、ユージン。待ち合わせ相手を置いて、どこに行くつもりだ?」
ユージンはあんぐりと口を開けた。
最初に見た時には薄絹のせいでわからなかったが、彼女の瞳は赤色だった。それに、この声……。
「ルィヒ?」
ユージンが声を押し殺して訊ねると、踊り子の装いに身を包んだルィヒは茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせた。
「侍女達に頼んで、衣と腕輪を見繕ってもらったんだ。どうだ、なかなか様になっているだろう?」
劇を見終えた観客達がこちらに近づいてくる気配を感じて、ユージンは血の気が引くのを感じながらルィヒを木の影に隠した。
「ああ、そりゃもう、声を聞くまでわからなかったよ。だけど、護衛もつけずに変装して、一人でこんな所まで出てくるなんて、ちょっと迂闊すぎるぞ」
「護衛なら、連れているが」
ルィヒは目顔で背後を示した。
今までユージンの視界には入っていなかったが、確かに、ルィヒの背中を守るように一人の男が立っている。
肩幅が広く、ユージンよりも頭ひとつ分背が高い。気品のある、整った顔立ちをしていたが、唇を真一文字に引き結び、帯に差し込んだ短剣に片手をおいて油断なく周囲の様子に気を配っていた。
ユージンは吸い込まれるように彼の顔を見つめた。
どこかで見た事のある鋭いまなざし、それに、まだ若く見えるのに、白銀色の髪……。
「カルヴァートか?」
にわかには信じられなかったが、かすれた声でユージンがそう訊ねると、踊り子に変装したルィヒが得意げに胸元で腕を組んだ。
「彼の一族のとっておきだよ。ひと目で汞狼族だとわかる者を連れていたら、わたしの身分までばれてしまうからね。ただ、この状態だと彼は喋る事が出来ないから、そこの所はよろしく頼む」ルィヒは体をひねって振り返り、カルヴァートを見上げた。「えっと、食事は出来るんだっけ?」
カルヴァートはゆっくりと首を振った。食べられない、とも、必要ない、とも取れる返事の仕方だった。