外出―記憶
三題噺もどき―よんひゃくはち。
ひゅう―と風が耳元を通り過ぎた。
玄関を開けた矢先に飛び込んできた冷風。
一瞬にして気力を奪われたが、買い物に行かないと食料が尽きた。
「……」
外出そのものが面倒なら、通販でもいいとは思うが。
最近はセルフレジなるものができて、他人との関わりが最低限になくせるので基本的には食料の買い出しは自分で行っている。極力部屋にこもるなとも言われているので。
あとは、単純に通販にはあまりいい思い出がない。
「……」
玄関の扉を閉め、エレベータへと向かう。
外はすでに薄暮が広がっていた。
ほとんどの家ではすでに夕食の準備を済ませていたりするんだろうか。もしくはすでに食べ始めて居たりするのかもしれない。
家では基本もっと遅い時間に食べていたから、まだこの時間は自室にこもっている時間帯だったきがする。身内は帰宅が遅い者ばかりだったから。
「……」
1人暮らしを始めても、遅い時間に帰宅していたから、この時間はまだ会社にいた。
定時はとうに過ぎていたが、残業というやつだ。毎日のようにしていたからなぁ。
何というか、今この時間に買い物に出ているのが不思議でならない。
「……」
無人のエレベータに乗り込む。
実を言うと、もっと早い時間に出るつもりだったのだ。
ただ、なんというか。
今日に限って、体が言うことを聞かない日だったらしく。
このタイミングではやめてくれ……と思いつつ、何とか外出できるまで回復させたのが、この時間だった。
「……」
これでもまだましになったほうだ。
丸一日外出が出来ない日が数日続いたこともある。そういう時は大抵読書なんかをして、気を紛らわそうともしていたが、無駄な努力に終わった。
今では、それとなしに気を紛らわしてしまえるようになっているので、成長だ。
「……」
低い音と共にエレベーターの扉が開く。
今日は近場のスーパーに行く予定だ。
少々混雑しているだろうが、まぁ、行かないと食料不足で倒れかねない。
とは言え、徒歩での移動ではあるので、買う量は限られているが。
最低限、購入できれば今日はいいだろう。
それぐらいの余裕しかありそうにない。
きちんとした買い物は、もっと調子がいい時に行こう。
「……」
マンションのエントランスを出て、左に曲がる。
反対側に行けば、すぐに大通りに出るのだが、今日そちらは歩けそうにない。
ま、単にスーパーがこちら側というだけだが。
「……」
住宅街の中を歩いていく。
ときおり学生らしい集団とすれ違う。
そうか、部活動生なんかはこの時間に帰るのか。
時期的には、一年生か二年生あたりだろう。すでに三年生は受験で勤しんでいるだろうし。いや、この間共通テストとやらは終わったから、どうなんだろう。
残念ながら、推薦で進学した身なのでそのあたりはよくわからない。
「……」
あの学校に行ったことに後悔はしていないが、もっと違う選択肢もあっただろうなぁと、今では思う。
学校で決められた推薦枠に入った以上、断るわけにも行かず、進んでしまったが。
まぁ、今更どうこう言えるものでもない。もっと専門的なところに行けばよかったなと思っているだけだ。
「……」
冷たい風にさらされながら、更に歩いていく。
この先にある二つ目の角を曲がれば、そこから真っすぐ行く。それで目的地にたどり着く。
上に羽織ってきたジャケットの前を少し閉じながら、歩く。
さすがにこの時期のこの時間は寒くて仕方ない。防寒の一つや二つしてくるんだった。それが、無駄な努力に終わったとしても。
「……」
そんなのんきなことを思いながら、角を曲がる。
と。
道の先に1つの影があった。
「……」
人が居るのは当たり前で。
先程から学生やら散歩のご老人やらとすれ違っているから、気にするほどでもないんだが。
そのはずなんだが。
「……」
それでもその姿に。
足はとまり。
呼吸も忘れ。
思考は固まる。
「……」
腰の上にまでかかる、長く美しい黒髪。
すらりとした手足に、細く綺麗な指。
ふわりとしたスカートは風に揺れて。
華奢な体に大き目のジャケットを着ている。
「……」
今私が着ているものと同じの。
「……」
どうして彼女がいるんだろうか。
ここに居るはずのないあの人が。
「……」
見た目そのままに、美しく優しい人だ。
聡明で、機転のよく利く賢い人。
私のせいで。
わたしの。
せいで。
「……」
あの日。
「……」
わたしのせいで。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
にぃぁ―――
「――!!」
頭の上から声が聞こえた。
声の主を見やれば、塀の上に立っていた黒猫だった。
野良だろうか、毛並みはぼさぼさで、見目がいいとは決して言えない。
体もだいぶやせ細り、きっと食事もろくに摂れていないのだろう。
それでも、凛とした瞳があるのは、この猫らしさというところだろうか。
「――」
はたと、視線を目の前の道に戻すと。
そこには、玄関先で楽しげに会話をしている、黒髪の女性が立っていた。
よくよく見れば。それは、彼女でも何でもない、赤の他人だ。
きっとこの辺りに住んでいる人ではあるだろうが、私はあの人を知らない。
「――」
いつも以上に疲れていたのに、だましだましで外出したのがよくなかったのだろうか。
こんなことはめったにないのだが。
何とか思考を巡らし、早まる動悸を抑える。
猫は何かに満足したのか、そこに居座り毛づくろいを始めていた。
「―………」
呼吸は落ち着いた。
動機も何とか。
この猫のおかげで少し目が覚めた。
「……」
とりあえず。
さっさと買い物を済ませて帰るとしよう。
それぐらいの余力は戻ってきた。
お題:薄暮・黒髪・猫