128 〔母の想い〕
娘は感情をあまり表に出さない。
本当に無感情というか無表情というか、あまりにも感情を表に出さないため、心配になっていた時もあった。
生まれたばかりの頃もあまり泣くことも、ぐずることもなかった。
そんな子供は脳に障害を抱えていることもあると聞き、当時は心配もしたが今となっては杞憂だということがわかった。
喋ることがまだおぼつかない時でも、人が話しかけると反応してくる。
内容がまだわからなくても、大人の言っていることはなんとなく理解していたのだろう。
そんな娘が喋るようになって少ししたある日、本が欲しいと言い出した。
その時は本ぐらいいくらでも買ってあげようと思っていた。
おもちゃよりも勉強のためになるだろうし。
まぁ、幼児用の本なんてものは遊びに毛が生えた程度のものだろうと、そう思っていた。
「ママ、こっち」
小さい手に引き連れられやってきた、家の近くの本屋。
昔はお世話になった本屋も今では足が遠のいてしまった。
今はスマホがあればなんでも揃う時代。
わざわざ本屋に来ることもなくなってしまった。
そんな懐かしい本屋で娘はある書棚の前で立ち止まる。
「ここの本がほしい」
「…………」
幼児書……ではない。マンガでもない。かといって子供向けの絵本や図鑑、情報誌のような本でもない。
その本棚に置いてある本は――正直見ているだけで頭の痛くなる、大学生でも読まないんじゃないかという本の類いだった。
「………………読めるの? いや、そもそも文字は読めるの……?」
たっぷり数十秒考え込んでから、やっとのことで聞き返した。
娘はやっと喋ることができるようになった子供――子供というより、幼児といったほうが正しいのだろうが――そんな子供が絵本をすっ飛ばして、いきなり実用書のような本を読むのか?
からかわれているのではないか。
いや、こんな高度なからかいができるだけで天才なんだろうが……。
「……ダメ?」
娘が不安げに見上げてくる。
ダメではない。ダメではないんだが……。
「えと、例えば、この本はなんの本?」
とりあえず手短にある本を取って娘に渡してやる。
「え……? これは、すう学の本、だよね。まだ、むずかしくてわかんないけど、びぶんとかせきぶんとか、しっていたらやくに立つ本、だよね」
「…………」
「こっちの本は、しつりょうほぞんのほうそくの本。こっちの本はちどうせつについてかいてある本、だよね。おも白そうだよね」
「…………」
聞いているだけで頭の痛くなる本を、娘は面白そうだと言う。
「………………買う?」
「うん。買いたい」
娘が喜んでいる姿を見たのは久し振りなのかもしれない。
普段は無表情が多いから……。
それで、いろいろと吟味した結果、科学の本を買った。化学ではなく科学。
うん、娘が喜んでいるし、いっか……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
風邪を引いた。
娘が五歳になった頃だろうか。
せめて娘だけはこども園に連れて行きたかったけど、本人が断固反対したので仕方がなく諦めた。
その娘は、いま一人で別の部屋にいる。一人で大丈夫だろうか。
ウトウトとしながらもそんな心配ばかりが頭をよぎる。
カチャリ、と扉の開く音がしたが、意識が曖昧なため、それが夢なのかどうかすらもわからない。
そのあとには水の音が聞こえ、額にあったタオルの重さが消える。
誰か……いるの?
声にならない声を上げたが何も反応が無い。
そのまま意識が遠のいていくときに、額に何か冷たいものが乗せられた。
――気持ちいい。そう思い、意識が遠のいていく。
その後、どの程度時間が経ったのだろうか。
ふと、扉の開く音で目が覚める。
「あ、ゴメンね。起こしちゃった?」
「……コトミ?」
扉の方に目をやると隙間から顔を覗かしているコトミと目があった。
「おかゆ作ったんだけど食べれる?」
おかゆ……? おかゆってあのおかゆだよね。
「それ……食べられるの?」
「病人に食べれるか聞いているのに、なんで逆に聞いてくるの? ちゃんと作ったんだから、食べられるに決まっているでしょ」
なかば呆れ顔でそんな風に返される。
確かに……自分が何を言っているのか……って、コトミが料理? やったことあったっけ……?
頭が回らないが、身体は正直なもので、お腹の虫が早くしろとばかりに悲鳴を上げる。
「あはは、いま準備してくるから待ってて」
近くに寄ったコトミがそう言って離れようとするが――。
「……もう、すぐ戻ってくるんだから、ちょっと待ってて」
コトミが振り返り、そう声をかけてくる。
慈愛に満ちた眼差しは普段の無表情な娘と違い、人間らしさがあった。こんな顔もするんだ――。
と、思ったら気が付かないうちにコトミの手を掴んでしまったようだ。
無意識の行動に少し恥ずかしくなる。
おとなしく待っていると、トレイに乗せていろいろと運んできた。
……重くないのかな。寝ぼけ眼でそんなことを思う。
「起きれる?」
近くの机にトレイを置いて、身体を支えるかのようにコトミが起こしてくれた。
完全に病人扱いで情けないやら恥ずかしいやら……。
それより、コトミって意外と力があったんだね。
「ふー、ふー、はい、あーん」
「……娘よ。それはさすがに恥ずかしい」
小分けにしたおかゆを冷ましながら口元へ持ってくるコトミ。
子供じゃないんだからそれぐらいは自分で食べられる。
「何をいまさら。十分恥ずかしい姿を見せているんだからこれぐらい平気でしょ」
「いや、越えてはいけない一線というものがあってね」
「そんなの、さっさと越えた方が気は楽だよ」
「救いはないの!?」
うぅ……コトミってこんな性格だっけ……? スプーンを持ったまま見つめないで……。
仕方がなく意を決し、口を開く。
そこに無遠慮に突っ込まれるスプーン。
「ふぐぅ……ひょっと、やひゃひくひてよ」
「なんて言っているかわかんない」
わかっているでしょ……。口元笑ってるんだから。
一口にしては少々多いおかゆを味わいながら咀嚼していく。
「……おいしい」
「それはよかった。食べられるだけ食べてね」
「うん……ありがとう。ところで……」
「ん-?」
コトミは次のおかゆをすくい、口元へ持ってくる。
「あむ……。ところで、コトミは料理したことあったっけ? ……普通においしいんだけど」
「…………」
無言で次のおかゆをすくい上げるコトミ。
な、なんだろ、この間は……。
目が笑っていないのが余計に怖い……。
「料理ぐらい見ていればわかる」
そんなはずあるか。
なんとなく、なんとなくだけど、初めて娘の闇を見たような、そんな気がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
娘はあまり感情を持たない。
いや、持たないというよりかは、あまり表に出さないというのか。
この前、バラエティー番組を見てたときは「あはは」って笑っていたし。目は笑っていなかったけど。正直我が娘ながら怖かったけど。
そんな娘だけど、スマホをプレゼントしたときはすごく喜んでいたな。
あの喜びようはいつ以来だろうか。
確か、初めて本屋で難解な本を買ったとき振りか……。
そんな娘を不思議な子供だとは思う。
子供のようで子供ではない。
まるで同年代の友達のように接してくる娘。
小等部に入学してからもそれは変わらず、大人らしい一面を垣間見せることもあった。
そんな娘に甘え、父母共に仕事に没頭してしまったのは、いまさらながらに反省すべき点ではある。
それでも、一人になれることが嬉しいからか、娘は背中を後押ししてくれた。
「私は大丈夫。離れていても心はいつも一緒」
そう言って二人にプレゼントをくれた娘。
スマホのお礼だとは言っていたけど、その気持ちが本当に嬉しかった。
もらったプレゼントは、大人にとってさほど高価なものではなかったが、子供のお小遣いで簡単に買えるほど安いものでもなかった。
そんなものを娘からもらったことが嬉しく、何年経っても肌身離さず身に付けていた。
仕事も順調にこなしていたある頃、新しく発足したプロジェクトに抜擢された。
国外での仕事のため、長期でこの地を離れる必要があるが、うまくいけば昇進もするし、この地に戻ってくることもできる。
娘にも相談したが二つ返事で了承されてしまった……。娘が十歳の頃であった。
さすがに娘一人では心配なため、お手伝いさんを付けた。
彼女であれば家事ももちろん、娘のこともしっかりと見てくれるだろう。
娘は歳の割にしっかりしている。しっかりし過ぎている部分はあるが……。
ともあれ、あの子は娘のことも守ってくれる。
そう思えば安心して仕事へと専念できた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あら、あなたも同じ便?」
「おや、偶然だね。君が隣の席だなんて」
別々の仕事をやっているにも関わらず、偶然にも一緒となってしまった飛行機。
この広い世界で同じ時間、同じ行き先、同じ便、偶然が重なるものだ。
「ちょうど娘は期休み中だしね。少し時間もできたから娘のお友達にご挨拶をと思って」
「ははは、君もかい? 僕もそうさ。あまり時間は取れなかったけど、久し振りに娘に会いたくてね」
どうやら目的は同じようだ。
娘は今まで友達らしい友達はいなかった。
もちろん、こども園や小等部で仲のいい子たちはいたが、お泊まりするぐらい仲のいい子はいなかった。
そんな娘が一ヶ月も友人宅へお邪魔するという。
娘の友人がどんな子か、単純に興味が湧いた。
ご両親へお礼の電話はしたが、どこかで直接お会いしなければいけないと思っていたし、今がいいタイミングだろう。
久し振りに娘の顔も見たいし。
少し変わった家族の形だけど、親子三人仲良しでいられていると思う。
今後も、こんな関係が続けばいいな――と、離陸していく飛行機に揺られ、心からそう思う。
いつか――いつかまた――一緒に過ごせることを夢見て――。




