124 〔運転手の想い〕
深々と下げた頭を、ビーンはゆっくりと上げ、建物の中に入って行った少女の背中を静かに見送る。
ビーンは今日、リーネルンの友人であるコトミと初めて言葉を交わした。
リーネルンたちの会話から、あの少女も聡明な人物なんだろうとビーンは思っていた。
その予想は正しく、リーネルンに引けを取らない人物であった。
ビーンは心の中でリーネルンと比較したことが、少し恥ずかしくなり車へと乗り込む。
ビーンは昔からペルシェール家へ勤めており、運転手となってからも変わらずこの家に忠誠を誓い働いていた。
リーネルンが生まれてから今日に至るまで、特定の友人というものをビーンは見たことがない。
初めて連れてきた友人。それがコトミであった。
この街に訪れる際もビーンは運転手を務めたが、二人ともに仲が良く、まるで昔からの友人であるかのようだった。
数日経ったある日、リーネルンが暴漢に襲われたという話をビーンは聞いた。
幸いにもリーネルンに怪我はなかったようだ。
どうやら友人のコトミが、身体を張って守ったらしい。
勇敢な少女じゃないか。そう思うビーンであったが、二度目の襲撃のあと、二人を迎えに行ったビーンはコトミの姿を見て驚愕した。
腹部に怪我をしたのか、大きな血の染みが広がっていたからだ。
聞いた話によると、ニワトリが巻き込まれたとかなんとか……。
(そんなわけあるか! 色合いと臭いでわかるだろうが! とは言っても、リーネルンお嬢様から完全否定されてしまったら、追求のしようがないか……)
あの出血量は致死量を優に超える。
なぜピンピンしているのか謎であるが、命を救ってもらった事実に変わりがないと、ビーンは無理矢理納得した。
どのような窮地に陥っていたらそんな大ごとになるのか想像もできないが、そんな危機から救ってもらったコトミに対して感謝の念をビーンは抱く。
三度目の話も人伝に聞いたが、二度目以上に凄絶な姿だったらしい。
ビーンは深く考えることをやめた。リーネルンの命を救ってもらった大切な友人。それだけでいいのではないか、と。
その後もコトミの苦難は尽きなかった。
両親の乗った飛行機が墜落したという。
本人は至って冷静を務めているが、内心はきっと不安に満ちているのだろう。
少しでも力になれないか。ビーンはそう考えるが、一運転手にそんな機会が訪れることはまず無い。
何かができるわけでもないが、空港まで送り届ける役目を与えられたのは、幸いであろう。
孫と言っても差し支えない、年端もいかぬ少女。
これからきっと苦難の道を歩むこととなるであろう。
ビーンは後部座席へ座る少女に思いを馳せながら、せめて今だけは、ゆっくりとしてもらいたい。
そう思いながらハンドルを握る。
途中の休憩所で出発の準備を整えていたら、突然声をかけられた。
ビーンは驚きながらも冷静に対応する。
飲み物を渡されたが、ペルシェール家には相容れない人物が多く、信用にならない相手からの差し入れは、基本的に断るようにしている。
ただ、コトミはリーネルンを命がけで守った恩人でもある。
ビーンは一瞬逡巡しながらも、自分で選んだコーヒーを受け取った。
差し入れもそうであるが、車への工作防止のため、車から離れることも可能な限り行わず、立ち寄るところも安全な場所、もしくはこの店みたいに信用できる場所でしか休憩を取らないようにしている。
同じように差し入れも避けたかったが、恩人でもあるコトミからの差し入れである。
それに、自分で選んだコーヒーであることも、差し入れを受け取った一つの理由である。
仮に選択肢のない状況での差し入れであれば、何か盛られたりする可能性もあるため、ビーンは受け取らなかったであろう。
両方の飲み物に細工をした可能性も考慮し、ビーンはコトミの様子をしばらく見る。
幼い少女が、たかが運転手に何か盛るはずはない。
ビーンはそう思ったとしても、ペルシェール家以外をそう易々と信用するわけにはいかなかった。
自分に何かあった場合、それすなわちペルシェール家全体に危害が及ぶということなのだから。
コトミが自分の紅茶に口つけたことを、バックミラーで確認したのち、ビーンはやっと自分のコーヒーに手を伸ばすのであった。
ビーンの心配は杞憂に終わり、特にトラブルもなく目的地へと到着した。
道中、コトミとの会話はほとんど無かった。
ただの運転手であるビーンは立場をわきまえていたが、最後にどうしてもこの少女へ助言を授けたかった。
これから両親の元へ行くのであろう。
きっと今は現実を受け入れられていないだけかもしれない。
現実を突き付けられた時、少女は受け止めきれるのか、絶望してしまうのではないか。
孫の歳でもある少女をビーンは心配していた。
リーネルンの友人ということもあり、また戻ってきてほしい。
事情が事情なだけに、塞ぎがちになるのは仕方の無いことだが、またいつか、笑顔で過ごせることを心より願う。
そんな想いを胸に秘め、ビーンは最後に口を開いた。




