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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

タナトス

作者: yandora

 省司は精神科外来の帰りに理子に会った。二人は同じ高校の同級生で二年生。陽気な春にも関わらず、今日も二人とも学校には時々顔を出す程度だ。つまり、半端な不登校。

 省司と理子はとても仲が良く、学校のある昼日中にも関わらず、学校をさぼって街をふらふらしていた。とはいえ、不良というほどでもなく、いつも公園でおしゃべりするか図書館で仲良く読書するというある意味健全な二人だった。

 しかし、二人の間には緊張感のようなものがあった。それは本当の意味での緊張感ではなく、ただ、暗黙の了解のようなもので、二人を不仲にするようなものではないが、超えてはならない一線が常にそこにはあった。

 二人は恋愛関係にあったはずなのだが、その“一線”のせいで公園や図書館にいる程度のある意味健全な状態を維持できている。

 だが、省司はそれに違和感を持ちつつあった。どうしてそんなものが存在するのかと。それは理子が何かを隠しているというわけでもなければ、省司が引け目を感じているというわけではない。ただ、暗黙の了解があったのだ。

 図書館で仲良く読書をしていたある日、理子は読書をしている省司に話しかけた。

「ねえ、この本、面白いね」

 それは省司が理子に紹介した本で、図書館にたまたま置いてあった文芸作品だった。よく図書館にはずらりと文芸作品が並べられていることが多い。需要があるからなのか、市民は学術書など読めないと馬鹿にされているのか、やたらその図書館には文芸作品が多かった。その一冊にすぎない。

「ああ、その本ね。どんな感想?」

「面白いけど……、最後ヒロインが自殺するのがちょっとショックだったかな。でも何か、憧れるような気がする」

 省司は黙った。確かにその本のラストはインパクトがある。ヒロインが自殺するというのを過大に誇張されている。そこに美的センスを表現されている点で、まるで自殺を肯定しているかのようだった。

「だけど主題はそこじゃないよ。この本は悲劇を描いたわけじゃなくて、この世界の不条理に強烈な批判をするというのが目的だと思う」

「ふーん、そうなんだ」

 理子は納得いかない様子だった。ただ、面白いものを見つけたという表情は消え、むしろ戸惑っているかのようだった。

「ねえ、省司。あの日のこと、覚えてる?」

「あの日、か」

 あの日。それは二人の間で共有された接点であり核である出来事だった。

「私ね、あの日のこと、この本を読んだら思い出して」

「――もうやめよう」

 この話は打ち切ろうと省司は遮った。

「そうだね……」

 あの日、それは高校もまだ入学式が終わって日が浅いころ、二人は何かに絶望して学校の屋上から飛び降りようとした。それが何だったのか、今では思い出せない。思い出してはいけないとすら感じる。その時は間一髪で教師に止められた。不安定な思春期だからと見逃され、中退することにはならなかったものの、その日以来、つまり入学当初から中途半端な学生生活が続いている。そしてテストと単位だけはなんとかパスしながら、かろうじて高校二年に上がったばかりだ。

 その代わりに精神科の受診をスクールカウンセラーに提案された。二人そろって、精神科病院に入院することとなった。そのころの二人は憔悴しきっていた。憔悴していたことは覚えているのだが、それが何に対してなのか、それは二人とも思い出せないでいた。

 二人そろって、といっても仲の良すぎる二人は別々の病棟に入院した。二人は引き離され、そして数か月の入院でその絶望は忘れ去られてしまった。

 それでも、あの日見下ろしたアスファルトの無機質で無慈悲、とにかくすべての無を象徴していたその印象だけは忘れられない。


 省司はと理子は図書館を出ると、公園へ寄った。今日はあの嫌な学校に行く気などなかった。それは二人の間で言葉を交わさずとも了解されていた。

 公園に行き、いつもなら二人でくだらないおしゃべりをするはずなのだが、理子は何か考え込んでいるようだった。ただ、ぼうっとして、省司の話しかけた言葉にまともに返事をしない。

「理子、聴いてる?」

「あ、ごめん。全然聞いてなかった」

「何か気になることでもある?」

「……ちょっとね」

「何が気になってるんだ?」

「うーん、別に話すほどのことじゃないかな」

「そっか」

「それで、何の話だっけ?」

 省司はそれ以上話を続ける気にならなかった。強引に話題を再度話しても、省司の気が乗らなかった。

「いや、もういいよ」

「そっか」

 普段なら何か面白い話はないかとせがんでくるほどの理子だが、今日に限って省司に何も話しかけようとしない。そしておもむろに理子は立ち上がった。

「ちょっと考えたいことがあるから先に帰るね」

「あ、ああ。気を付けて」

「うん、また明日!」

 理子は元気よく去っていった。公園に取り残された省司は理子の異変に気付いていた。

 あの、図書館の本のこと。それは理子にとってあまりいい意味を持たなかったのかもしれない。“あの日”のことを思い出させてしまった。省司は理子が“あの日”のことを忘れてしまっていればよかったのに、と思いつつも、それが本当に良かったのか、何か、またしても言い知れぬ違和感があった。

 

 翌日、省司は学校へ行こうと思った。スクールカウンセラーと話がしたいと。しかし理子は学校はつまらないから嫌だという。ただ、この“何か”の正体を知っておかないとよくないと焦りのようなものを感じていた。

 スマホで省司と理子は連絡を取り合いながら、かろうじて理子を制服に着替えさせ、家の前まで連れ出すことに同意させた。

 家がほぼ近所な二人は一緒に学校に向かうかどうか、すぐそばの公園でもめていた。

「ほんと、学校なんてつまらないから図書館行こう」

「でもさ、学校にも図書室あるし」

「あそこは授業中にいたら怒られるでしょう。私と図書館行くの嫌なの?」

「嫌じゃないけど……。ちょっとカウンセラーの先生と話がしたいんだ」

「カウンセラーと? 何の話するの?」

「何の、って言われても……」

「私に話せない話?」

「そういうわけじゃないけど……」

 しかし、打って変わって、理子は態度を変えた。言い争うのは好きではないらしい。だから二人の関係は続いている。

「まぁいっか。たまには学校に行こうか。出席日数も稼いでおかないといけないし」

「そうだね」

 省司たちは学校に着くと、別々のクラスへ別れた。

 

 省司は理子の目をかいくぐるようにして相談室へ行った。カウンセラーの先生は在室で、すぐに相談に乗ってもらえた。

「ああ、佐々木君。今日は学校に来れたのね」

 その、いかにもベテラン心理士といえそうな中年の女性カウンセラーは親しみを込めてそういった。

「……はい」

「どうかしたの?」

 カウンセラーはそれ以上は何も尋ねない。省司が自発的に話し出すのを待っているのだ。もうこんなこと、省司は精神科にしばらくかかっていて慣れきっている。それはうんざりするほどに。

「……いえ、なんでもありません」

「大丈夫? 顔色悪いけど。相談室より保健室行く?」

「なんでもないです」

「話したいことがあれば遠慮なく話していいのよ。他の人には絶対に話さないから」

「……何か、いえ、どうして僕は死のうとしたんでしょう?」

「覚えてないの?」

「はい」

「思い出せないということは思い出さなくてもいいということじゃないかしら。必要な時にいつか思い出せる、くらいに考えておけばいいかなと思うわ」

「でも、自殺を企てた動機をはっきりさせたい。違和感しかないんです」

「病院の方ではなんて言われてるの?」

「……今は思い出す必要はない、と」

「つまりはそういうことじゃないかしら。必要な時に自然と思い出されるのを待てばいい」

 省司はその一連の言葉に温かさを感じた。そしてそれは真綿で首を絞められるような苦しさも感じた。


 相談室を去り、すぐに理子の教室へ向かった。理子は省司を見ると目を輝かせた。省司は理子の手をつかんで、「帰ろう」といった。


 二人はすぐさま学校を出て、家のそばの公園へ向かって歩いた。省司はその違和感を何とか口にしたかったが、それが何なのかまだ分からなかった。かといって、それをカウンセラーに聞いたところで、答えは返ってこないということは明白だった。何か、隠されているということを察していた。

「理子、何か違和感があるんだ」

 理子がベンチに坐るとすぐに省司は切り出した。

「せめて坐ってからにしようよ。小春日和で気持ちいいよ」

 省司は自分が立ったまま、それも不安に息を切らしながら話していることに気づく。

 呼吸を整え、ベンチに坐る。理子に何から話せば位のか迷い、頭を抱えた。

「省司の考えてること、なんとなくわかるな」

「わかる?」

「昨日の延長でしょ? 多分――」

 聞くのが怖かった。聞きたいはずなのに、深淵に飲み込まれそうで怖かった。しかし他人の口を塞ぐことは容易ではない。理子は遠慮なしに話し始めた。それは二人の関係を壊すことだとわかっているはずなのに。

「死にたい、ってことでしょ?」

 すべての核心だった。どうして“あの日”死のうとしたか。その理由なんてどうでもよかった。ただ、死ぬことを否定され、そう教育された。それは学校でも、そして精神科病院でも。だけど、文学の世界ではたくさん人は死ぬ。それは自殺でもあるし、他殺でもある。もっとも、他殺はそれなりの報いを受けていることもあるが、自殺に限ってはむしろ美化されている節もある。

どうして絶対的に死は悪なのか。精神科や学校は死を否定するのか。生きていれば考え方が変わるというのは省司には理解できた。ずっと小さいころと、今とでは、全然世界の見え方が違うからだ。周りの人が悲しむということも理解できた。でも苦痛に感じない瞬間に死ぬことの何が悪いというのだろう、いつかは誰だって死ぬのだ。家族は悲しむだろう。ただ、省司はあまり報われた家庭ではなく、だから今もこうして理子と過ごしている。家族が優しければ、それならずっと家に引きこもりたいような人間だ。だから家族がもし悲しむような奴らなら、むしろ悲しませてやりたいとさえ思う。特に、病院の看護師の「私は悲しい」なんて言葉に苛立ちすら感じていた。職業上の方便だろう。きっと自殺企図患者全員に言って回っている。そして自殺を否定し、絶対悪として扱う。死を絶対悪として扱う現実が、省司には認められなかった。

「タナトス」

 理子はぽつりとつぶやいた。

「人間は生の欲動があると同時に死の欲動があるとフロイトは言っている。どうして生の欲動ばかり肯定されて、死の欲動は否定されなければならないのか。あの本、世界の不条理を説いたと省司がいってた本は、きっと死の欲動ばかり否定される現実に対しても、不条理を訴えていたのかもしれないと思う、なんてね」

 理子は笑って見せたがその目は真剣なまなざしだった。

「もし、人が生以外を否定されるのであれば、私はあなたと結ばれることはできない」

「えっ……」

 そう声が漏れたが、しかしわかっていたことだった。

「私は、あなたと結婚する気も、性行為をする気も、さらさらない。ただ――」

 ポケットから理子はカッターナイフを取り出した。

「こういうことはしてみたいかな」

「こういうことって?」

「傷つけ合う。壊し合う。あるいは、殺し合う。言葉を変えれば、心中」

 省司はすべてを理解した。そもそも、二人の関係は死に向かって突き進む、破滅の関係だったと。死の欲動、破壊欲求が根底にある関係だったと。

「今度いつ、病院行く?」

「来週かな」

「カッターナイフでは完全な最期は不可能だから、もう少し作戦を考えよう」

 理子は微笑んだ。そして腕を出すように言った。

「ちょっと痛いよ」

 そういってカッターナイフで少しばかり、切った。じわりと血が出てくる。でも、大した傷ではない。

 理子は自分の腕を出し、自らの腕にも傷をつけた。そして微笑みながら省司に言った。

「もう次の受診はできないね。次は自傷行為でまた病棟送りだよ」

 それまでに確実に死ぬことの決意だった。


 翌日、二人は公園で話し合っていた。

「毒、首つり、飛び降り……。何が一番“愛し合える”かな」

 愛という言葉はどちらも使ったことがなかった。だが、死を前にして初めて、どちらからともなくその言葉がでてきた。

 しかし、理想的な死に方は思いつかない。二人は一日を費やして考えたが、結局思いつかなかった。

 それは翌日も、翌日も考え続け、ついに理子の診察日の前日まで至った。


 逢魔が時のこの世ともあの世とも言えない時間。二人とも薄暮の中で、しかし焦りを感じなかった。きっと時が来て、それが合図だったのだろう。理子は家から持ち出したであろう包丁を、すっと差し出した。

「これで殺して」

「でも僕は……」

「追ってくれればいいから。信じてる。私たち、愛し合ってるでしょう?」

 省司はためらい、そして時間ばかりが過ぎていった。近くの街灯が明るくなり、夜は刻一刻と深まっていく。

 もはや真っ暗になってきたとき、月明かりだけが輝いて見えた。

「殺して。お願い」

「本当に、これでいいのか?」

「何を今さら」

「生、生産しないことへの否定に対する不条理を、ただ死、破壊という行為を肯定することで抗えるのか?」

「できるよ」

「抗うって、生きることじゃないのか?」

「私たちはそんな社会活動みたいなことがしたいのではないでしょう? ただ、愛し合いたかった。それにずっと現実によって無意識的に歯止めをかけられていた。それに気づいて、ようやく結ばれる。これってとても素敵で、幸せなことでしょう?」

 省司は握っていた包丁を落とした。

「僕にはできない。理子が殺してくれ」

 理子はあきれたようにため息を吐いた。

「まったく、男らしくないな。でもいいよ。そういう概念が問題なんだもんね」

 理子は包丁を手に取った。省司は理子が殺しやすいように地面に仰向けに寝転んだ。

「すぐ、追いかけるから」

 理子は包丁を逆手に持つと、思い切り省司の腹を刺した。省司は激痛すら感じられなかった。ただ、鈍く重い感じたことのない感覚が腹に響いた。

 それが何度も、何度も繰り返される。

 口から血がこぼれる。月明かりに照らされて、それは透き通るような鮮血であることに気づかされる。

 省司は死の恐怖はなかった。自分の価値を認めてくれるのは理子だけだと思った。だから理子に殺されて、それは幸せなはずだった。

 だが、理子の表情は曇っている。幸せなはずだ。報われたはずだ。でも、理子は――。

 近くをバイクが走った。カーブミラー越しに光が当たった。エンジン音が通り過ぎた限り、気づかなかったのだろう。だが、その光が理子の表情を照らしてしまった。

 それは、とてもとても嬉しそうで、恍惚としていて、幸せそうだった。

 だが、その表情に、省司は不安しか感じなかった。決して、理子と愛し合えたという感じはしなかった。それは、ただの理子の快楽でしかなく、ただ、理子が悦んでいるだけにすぎないと感じた。

 心は通っていない。死にゆくものと、まだ生きている者の間に、心は通っていない。

 省司は意識が薄れながら後悔した。“あの日”、だれも止めずに飛び降りられていたら、こんなズレに気づかずに済んだのに。

 だが、死は不可逆的に進んでいく。きっと理子は追ってくれるだろう。だけど、それで正しかったのだろうか。愛に正解も間違いもないと理解はしているが、納得がいかない。


 これではまるで――狂気ではないか。


 そう思ったのが最後、完全に真っ暗な世界に閉ざされた。


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