1.少女
ふと目を覚ました俺は枕元に置いてあったスマホで現在の時刻を確認する。時刻は深夜、日付が変わったくらいの時刻だった。どうやら10時間程眠っていたらしい。ニート…いや自宅警備員というのはどうやら生活リズムを崩す職務なのだとこの歳になって痛感する。しかし流石に怠惰のあまり睡眠を欲した結果なのか、頭が思うように働かない。どうやら寝過ぎてしまったらしい。俺は頭が働くのを待つように布団の上で暫くぼ〜っとしていることにした。狭い和室一部屋のオンボロアパートに差し込む月の明かりが、俺をやんわりと照らす。無雑作に置いている扇風機はガタガタと嫌な音と共に生ぬるい風で俺の顔を撫でる。俺は布団の傍に置いてあった飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルを意味もなく持ち上げ蓋を開け、そして喉を鳴らしながら飲み干した。空になったペットボトルを手でグシャッと潰し、枕元から少し離れたところにあるゴミ箱に向かって放り捨てた。ゴミ箱にうまく入った。ここで俺はふと自分が何故今意味もなく水を飲んだのか理由がわかった。
朝から何も食べていない。つまり、空腹によるものだった。
その1つの答えが浮き出たと同時に、それを肯定するかのように俺の腹が鳴る。
俺の生活リズムが崩れているが故にか、この家には常備している食料はない。食欲が湧いた時に近場のコンビニで少々買い出しをして済ます程度だ。つまり、俺は今からコンビニに行かなければならない。俺はグッと体を伸ばした後、放っていたジャージを手に取り、それを羽織り、そのポケットに財布とスマホを入れた。そして玄関で靴を履き、木製の扉を開く。開いた隙間から生温い風が俺の頬を舐めるかのように吹きつけたため、少し顔を顰めたが、そのまま外に出た。
こんな時間帯の住宅街の道に人なんているはずもなく、周囲の住宅はもう既に明かりが消えており、傍に添えてある街灯だけが唯一の明かりとなっていた。俺は何の躊躇もなくコンビニに向かって歩き始めた。
何一つ不自由なことなくコンビニにたどり着き、適当に売れ残った菓子パンやおにぎり、そしてエナジードリンクとミネラルウォーターを買った。少々残金が心細い財布を広げ、店員にちょうどの金額を渡した。全てが終わると俺は額から流れ出た汗を手の甲で拭いながらレジ袋を引っ提げて家に帰ることにした。そもそも時間帯の問題と俺自身これはあくまで事務的なものだと認識しているので何処にも寄るような当てがあるわけがなかった。
夜の闇、漆黒とは言えずまた黒とも言えない、そんな夜の色に染め上げられた住宅街を歩く。街頭の電球には蛾などの虫がまるで少数の群れを成すかのように群がっていた。ちょうどコンビニと家の中間地点くらいだろうか。俺はふと脚を止めた。別に俺自身に何かが起こったわけではない、はず。しかし、もしかすると時間帯からして普段見ては、見えてはいけないものが見えてしまっているのかもしれない。
少し先の街頭の下。幼い少女だろうか。腰まで伸びた艶やかな髪を人工物の無機質なコンクリートの上に下ろし、まるで夜の色に溶け込むかのように黒のゴスロリのようなフリルのついた衣服を身につけていた。顔はわからないがその服から伸びる手脚はゾッとするほど白く美しかった。
俺は酷い話ではあるが、とりあえず見て見ぬふりをして前を通り過ぎることにした。だんだんと少女に近づいていくにつれ、何故か俺は何か大きな抵抗感を感じるようになってきた。まるで、少女自身ではなく、少女の何かが俺を拒むかのように。
しかし俺はなんとか彼女の前を通り過ぎることができた。そして少し横目で彼女を見た時、生温い風が俺に吹きつけた。まるで俺を執拗に舐めるかのような感触に、俺は顔を顰めた。対して少女は微動だにせず、その場でじっとしていた。
俺は少女に目もくれず、歩いた。もう二度と会うことはないだろうと、思った。
が、俺の考えがいかに浅はかだったのか、後に思い知らされることになる。この不気味な出会いが俺の全てを狂わせることになると俺は微塵も思っていなかった。
俺はその後菓子パンなどを食べ、眠った。そして朝目を覚ますと、スマホの液晶画面は午前9時頃を映し出していた。。別に自然に起きたわけではなかった。
枕元に置いてあるスマホがバイブと共に鳴り出す。曲は”Fly Me To The Moon”。選曲したのは俺ではなく今、スマホの水晶画面に表示されている電話相手、水谷司みずたに つかさだ。T大学の工学部、だったはず。水谷は俺の高校時代の級友であったが、俺からすると友達とは正直言い難い存在ではあった。別に水谷のことを嫌悪しているわけでもなく、むしろ逆で、水谷とは友好的であり、感謝もしている。昔、といってももちろん高校時代だが、色々俺が巻き込まれたときにいの一番に助っ人として名乗りを上げたのも水谷だった。たしかに水谷は口数が多く騒がしいが、それでも他人思いであり、誠実な男なのだ。時々、俺に無茶振りをして何かを押し付けることもあるが。それでも、嫌いになれないのだ。俗に言う愛されキャラなのだろうか。人間として欠点があってもそこが何処か愛おしい。そんな感覚に他人を陥らせるのが、水谷司という人間なのだろう。
俺はスマホを手にとり通話ボタンを押す。そして耳元に当て「もしもし」と寝ぼけた声で言った。
『おお、出た出た。久しぶりだな、灯彌!元気にしてたか!?』
朝からの水谷の陽気な声に俺は無愛想に言葉を返す。
「一番朝から電話をしたくない相手から電話がかかってきて、その上そんなハイテンションな声を聞かされてお陰様で少々精神的に参って寝込みたいところだ」
水谷は豪快にそれを笑い飛ばしながら言った。
『そうかそうか!元気そうでなりよりだな!』
「お前のそのポジティブさに脱帽しよう。だから俺はもう通話を切ってもいいか?」
『まぁまぁ、待て待て。少し、話したいことがあるんだ』
水谷はそう言うと、声のトーンを低くして言った。
『実は一つ、厄介ごとをお前に頼みたい』
「お前と女との揉め事の尻拭きや金関係は悪いが降りるぞ。そもそもそんな厄介ごとを持ってくるなら俺に合いそうな女と金を寄越せ。女はいいけど、そろそろ金がなくて餓死してもおかしくないんだよ」
『いや、お前に頼みたいのは8歳の子の子守だ。」
「、、、は?」
水谷が俺に頼むことと言えば人間関係でのトラブルの後始末や金銭の要求であったが、俺の予想を裏切ったその要求に、俺は思わずそんな言葉が口から漏れた。
『実は、少し前にな。8歳の女の子を大学の先輩から預かってほしいって言われてな。預かっていたんだけど、その後先輩の消息が突然わからなくなってな。警察沙汰になっているんだ。俺もその後も女の子の世話をしていたんだけどな、先日大学の教授から留学の話を持ち込まれて。明日から急だけどアメリカに行くことになったんだ』
「、、、で暇人である俺に預かってほしいと。水谷、こんな人生を真っ当に生きようとしていない俺が言うような台詞ではないが、お前はその少女をたらい回しにしようとしているんだぞ。まだ8歳だ。その少女が可哀想だとは思わないのか?お前は人一倍情のある人間だと評価していたんだが」
俺の言葉に水谷は少し間を置いて落ち着いたトーンで話始めた。
『、、、そうだ。お前の言う通りだよ、灯彌。どうやら先輩もこの少女がたらい回しにされていると聞いていたらしいんだよ。俺も正直、留学なんてしたくないよ、灯彌。だけどな、理不尽にも拒否権なんて与えられなかったんだよ。流石に蹴るわけにもいかないだろ?両親に高い金を払わせて大学に行っているんだ。そこは俺なりのエゴがある。じゃあ俺があの子にしてやれることは何だ?もうたらい回しにされないようにしてあげることくらいなんだよ』
「、、、で、俺が適任だったわけ、か」
『灯彌。悪い、本当に。俺が考えた中で誰よりも灯彌なら最後まで面倒を見てやれると思ったんだよ。お前は、昔から』
「昔話は辞めろ、水谷。思い出したくもない。まぁ、その件は俺が引き受けよう。アメリカだろうが心置きなく行ってこい。二度と帰ってくんな」
俺は水谷の話を遮り吐き捨てるようにそう言った。最後に皮肉を加えて。その後水谷は俺に感謝の意を述べるとすぐにこちらに向かうと俺に告げた。
「、、、全く、いつまでも迷惑な奴だ」
俺は誰に言うわけでもなく一人吐き捨てるように呟いた。
水谷が俺の元に来訪したのは昼頃のことだった。シュッとした輪郭に美しく配列された顔のパーツ。目は細く、瞳孔はその黒の色の中に何処か純粋な輝きを見せていた。筋の通った鼻に落ち着いた赤みを帯びた唇。その短い茶色のかかった髪は昔から変わらず無雑作に乱れていた。そして180cmの痩せ細ったような華奢な身体の上に羽織ったチェックのカーディガンにカーキーのズボン。「残念なイケメン」が最も似合うこの男が、水谷であった。水谷は対照的な様子の俺を見るや否や、「久しぶりだな」と白い歯を見せて笑みを俺に見せた。その後ろには、驚くべきことに、昨夜見かけた少女、果たして同一人物かどうかは定かではないが、その少女らしき少女が存在を薄くするかのように水谷の後ろで眉一つ動かさずに立っていた。格好やその表情から俺は恐らく昨夜の少女だろうと推測した。が、何故昨夜あのような場所にいたのかが多少なりと俺の中で引っかかった。
「まぁ、電話でも伝えた通りこの子がお前に預けたい子だ。名前は額零。年は8つだ。後は直接その子から聞いてくれ」
「、、、すぐ何処かへ行くのか?」
普段なら長々と一人で話を展開する水谷が、珍しく端的に話を済ませたことに疑問を感じた俺は隠す気もなくその疑問を投げかけた。案の定水谷はさっきと同じように笑って「ああ、この後大学の研究室に顔ださなきゃならねぇんだよ。んで、教授に頭下げたりとかしなきゃならないらしくてよぉ」と俺に言った。
「、、、アメリカな。急な話ではあるが、お前もわかっている通り、、、」
お前のやることは、罪が重いぞ。
俺の言葉の続きを察した水谷は零の頭を優しく、まるで実の兄貴かのように撫でながら「わかっている」と俺に言った。
「まぁ、アメリカから帰ってきたらちょくちょく顔出すからよぉ!心配すんなって!」
「個人的にはお前のような蝉よりも騒がしい奴なんて2度と帰って来なくてもいいとは思うぞ」
俺の皮肉を水谷は豪快に笑い飛ばし「全く、これだからツンデレはな!」と言った。
「、、、じゃあ、な」
俺は水谷にそう言うと、水谷は一瞬悲しそうな表情を浮かべ、すぐにへらっと笑うと「おうよ」と言い残し、俺の元から姿を消した。
「、、、零と言ったか。俺は奈良坂灯彌。21歳の、まぁ、、、ニートだ」
「、、、よろしく」
零はポツリと消え入りそうな声でそう呟いた。
「まぁ、、、その、あれだ。飯は食ったのか?」
零は首を横に振った。
「そうか、、、んじゃ、手始めに飯でも食いに行くか?」
その言葉に零はこくりとはっきりと頷いた。無愛想な幼女かと思いきや何処か可愛げが残っていて俺は何処か安堵した。
「じゃあ、何食いたいんだ?」
零は俯きながら「、、、焼肉」と言った。
「よしじゃあ焼肉行くか!ほれ、行くぞ」
俺はぎこちなくそう零に言うと軽い準備をし、歩き始めた。零も俺の後から追いかけてきて、意味もなく俺の手を握った。その手は柔らかく、小さく、儚いものに思えた。俺はあまり慣れないことに多少動揺するも、平然さを保ち近所の焼肉屋に向かって零の手を引き歩き続けた。
水谷が俺に遺したもの。それはもしかするとこの少女の何かなのかもしれない。それは何かしらの『感情』なのか、あるいは他のものなのか。はたまた形容し難いものなのかもしれない。しかし、水谷は安易に俺に少女を預けたわけではない。俺がそう思ったのは、水谷がその日の午後、死んだという知らせを受けたときのことだった。