第18話
テレビ局の楽屋、雪音と奏は出演するトーク番組の収録を待っていた。
部屋に奏のページをめくる音だけが響く。この場に夕菜がいれば、すぐにおしゃべりが始まるが、二人だけの時はお互い沈黙が常である。
今まで雪音は、その静寂に心地の良さを感じていた。しかし、その日はいつもと少し違う心持ちだった。
机にもたれて、スマートフォンを弄っているふうを装っている雪音。だが、その目線は画面と読書中の奏とを行ったり来たりしている。
そんなふうにしばらく過ごした後、雪音はついに口を開いた。
「……あの、ちょっといい?」
奏は本を閉じて机に置き、雪音を見据える。
「どうかしましたか?」
「いやその、この前偶然会ったじゃない?」
「ああ、私が山で蝶の写真を取っていた時ですね」
「そうそう。あの時に奏、夢の話をしてくれたじゃない」
「そうでしたね」
「でさ、奏はなんで、アイドルとして活動しながら、また違う夢を頑張って追いかけられるの?」
雪音は知りたかったのだ、八録がやたら興奮気味でかっこいいと言った、奏の心について。
奏はほんの少し考えるそぶりを見せて、応えた。
「……そうした方が楽しいからでしょうか。」
「楽しい?」
「なんと言ったらいいかわかりませんが、靴屋が音楽やる、みたいな感じでしょうか?」
「ど、どゆこと?」
いまいち例えにピンとこない雪音。
「その……、今がどうであれ、好きなものがあるなら、それをただ思って暮らすより、それに向かって頑張った方が前向きで、楽しいじゃないですか」
奏は微かに目を細め、優しげな声でそう言い足した。
「……うん、ちょっとわかったかも。ありがと」
――好きなものがあるなら……。
夕方、三十日の催しについて職員方との打ち合わせを終えた俺は、購買部の事務所で今日話し合ったことをノートにまとめていた。
「……ぼちぼち帰るかあ」
一つ伸びをする。すると、ノック音が三回。
事務所を訪れる人など、普段はほとんどいない。誰だろうと不思議に思いつつ、俺は扉を開けた。
「……あっ、あの、先生がさっき打ち合わせしたって言ってたから、ここにいるかなあって」
音の主は雪音だった。
「おー、どした?」
「私も用事終わったところで……、その、途中まで一緒に帰らない?」
俺を誘うために事務所へ……、嬉しいじゃない。
「わざわざありがとうな。じゃあ、ちゃっちゃっと戸締りするわ」
「う、うん」
書類を片し、事務所の扉に鍵をかけたところで、雪音が思い出したような調子で言った。
「あー、うっかり教室に忘れものした! うっかり忘れものした! そう、うっかり!」
なんで、やたらうっかりを強調しているのだろうか。
「そうだ! つ、ついでに教室見ていったら!?」
雪音は何か期待するような目でこちらを見てくる。
思えば、購買部と職員室以外の場所に立ち入ったことがない。この学校の生徒じゃないから、当然と言えば当然だけど。
「確かに教室の中って入ったことないし、興味あるかも」
「でしょ? じゃあ行きましょう!」
そう言って、雪音は俺の背中を押した。「よし、自然!」って呟くのが聞こえたけど、突っ込まない方がいいのだろうか。
誰もいない教室を、夕陽が赤く染めている。微かに聞こえる校庭の喧騒は、ずっと遠くの世界の音だ。
「えーっと、あ、あったわ」
雪音は学校机からノートを取り出し、カバンにしまった。忘れものは見つかったらしい。
「窓際の後方っていいポジションだよな。寝ててもバレないし」
雪音の席は窓際の一番後ろ。いい位置だ。
「……私は真面目に授業受けてるけどね」
「そういうところしっかりしてるな」
「あんたが適当過ぎるのよ」
雪音は呆れたように言って、机の上に腰掛けた。少しのあいだ、沈黙が流れる。
「……そういえば、雪音が水森の制服を着てる姿、初めて見るな」
黙って足を揺らす雪音を見て、ふと心に浮かんだことが口に出た。
「そうだっけ?」
俺が「うん」と言って頷くと、雪音はひょいと立ち上がる。そして、俺の方に向いて、その場でくるりと一つ回ってみせた。ジャンパースカートがふわりと舞う。
「ど、どう?」
暮方の太陽よりも赤くなった顔をほころばせて、雪音は俺に問いかけた。
「うん、よく似合ってる」
「……それだけ?」
信じがたいといった表情の雪音。
「あ、かわいい!」
「……もうちょっと、なんかあるでしょう?」
「えっと、ステキ、ちょーかわいい」
「……幼馴染にアイドル、制服に夕暮れと今、かなりの要素が乗っかってるのよ! あるでしょ!? もっとふさわしいレスポンスが!」
「……どういうこと?」
「トキメキなさいよ! 私に!」
なんかすごいこと言い出した。
「もー無理よ! 一回転までしたのよ!? ふつーどんだけテンション上がっても、そこまでしないんですけど!?」
すごい勢いで詰め寄ってくる。近い。
「いや、ほんと綺麗だし可愛いと思ったって」
「だったらもっと照れろ! どぎまぎしろ! ずーーっと思ってたのよ、なんでこいつ動じないのかなあって!」
「す、すみません」
「そっちがその気なら、こっちにも考えがあるわ……」
突然、雪音の両手が俺の頬を挟み込むと、顔の真ん前まで引き寄せられた。額同士がくっつきそうなくらい近い。
「三十一日、デート行くわよ! デート!」
「は、はい」
「いい? 遊びじゃないから! デートだから! あんたも相応の覚悟と決意をもって挑みなさいよ!」
デートってそんな緊張感漂うものだっけ? という思いは言葉にならなかった。気迫がすごくて。
「わかりました!」
「よろしい!」
返答に満足いただけたのか、解放された。恥ずかしかった。
「さあ、帰るわよ。あんたの微妙な距離感を破壊してあげるわ」
距離感って破壊するものなのだろうか。ともかく、どうも雪音は俺に距離を感じているようだ。
なので、そんなことはないよと行いで示すことにする。
「よし、じゃあ手繋いで帰ろうぜ」
「はあ!? 何でそんな恥ずかしいことしないといけないのよ!」
雪音にとっては、さっきの行動より恥ずかしいらしい。小学生の頃とか手繋ぎまくってたのに……。
「そう? じゃあやめとくか」
「繋ぐわよ!」
どっち!?
その後、人のいない静かな道を選び、一緒に手を繋いで帰った。