第16話
店の定休日である祝日、俺は一人厨房にこもっていた。
「焼けたかどうだか食べてみよう……、と」
湯気立つ、焼きたてのパンをひとかじり。うまい! が、何か違う。
「どうしたもんか……」
朝の冷えた空気に、独り言はよく響く。
「何やってんだい」
背後の声に振り返ると、婆様が立っていた。
「いやほら、この前やったチラシ配り、あれのおかげか、最近は少し客足伸びてるじゃないっすか」
「確かにそうだね」
配った直後はあまり感じられなかったが、ここ一週間、ようやくその効果が実感として現れてきた。昼時なんて、誰か一人はレジに立ってないといけないし。
「そこでさらなる集客のために、ちょっとパンチの効いた新商品の開発に乗り出そうかと思いまして」
「で、それがこれかい」
婆様は俺の焼いたパンをちぎって口に放った。
「もうちょい砂糖減らすといい感じかもね。ま、そんなことはいいのさ」
「『そんなこと』って」
婆様はパンを食べきると、俺の方を向いて言った。
「山行くよ、山」
「山? またどうして」
「今時期に山行くなんていったら、一つしかないだろう」
春、芽吹きの季節といえばである。
「山菜っすか」
「そーそー。さ、片して支度しな」
そう言って、婆様は厨房を出て行った。
パン屋なのに、パンより山菜が優先されるのか。マジかよ。
自室に戻り準備をしている途中、俺は一つ思いついて、机に置いていた携帯を取った。通話開始ボタンを押して、3コール後に電話がつながる。
「……もしもし」
電話口から若干眠そうな声。
「雪音? ハチロクだけど。悪いな朝から」
「いいけど……、どうしたのよ」
「山菜採りに行こうぜ。今日休みだろ?」
今日、雪音がフリーということは、数日前に雪音がメールしてきた「【必読】今月前半空いてる日一覧表」で確認済みだ。
「……なんで山菜?」
「山菜うまいじゃん。たらの芽、天ぷらにして食おうぜ」
「いやいや、そういうことじゃなくて」
「あっ、行くとこ国有地だけど、地元民なら山菜とか取っても大丈夫な場所だから」
「別に法的な問題を心配してるわけじゃないから」
そういうことじゃないらしい。
ひとつ息を吐く音が聞こえた後、雪音が言った。
「まあ、うん、いいわ、一緒に行くわよ」
「おー、ありがとうな。アパートまで婆様と迎え行くから」
そういえば子供の頃も、こんなふうに遊ぶ約束をしていたなあと、俺はふと思い返すのだった。
「にしても雪音嬢ちゃん、なかなか体力あるじゃないか」
「まあ、鍛えてますし?」
「やっぱアイドルも体鍛えるもんなのか」
陽がだんだんと暖かくなってきた頃、そこそこ山菜も取れたということで、俺たちは軽い雑談をしながら林道を下っていた。すると、道の先に妙なものが……。
「……なんじゃありゃ、人か? 人だわ」
少し近づきよく見てみると、それは地面に伏せてカメラを構える少女の姿だった。
少女を見て、雪音がつぶやく。
「あれ……、奏?」
「奏って、あの?」
「うん」
なんと、ThrTHメンバーの一人、宇佐木 奏その人らしい。
「ねえ、話しかけない方がいいのかしら……」
「すっげ集中してるし、待った方がいいんじゃ……」
半径数メートルまで俺たちが近づいても、こちらに気がつかない宇佐木さん。
ちなみに婆様は、その辺の岩に腰掛けてグミ食い始めてる。完全にそっちで勝手にやってくれモードだ。
「よし」
宇佐木さんは不意に立ち上がり、雪音の方に振り向いた。
「……おはようございます」
「……おはよう」
朝の挨拶を交わす二人。もう11時前ですけど。
「それで、こんなところでどうしたのよ」
雪音の問いに、宇佐木さんは淡々とした口調で応える。
「越冬したスジボソヤマキチョウの翅の色褪せてる感じを写真に収めてました」
「……ごめん、どゆこと?」
「はいはい」
そういうことらしい。
「えっ、なんでちょっと納得の感じなの?」
得心がいっていない雪音に、俺はフォローを入れる。
「スジボソヤマキチョウって本当は綺麗な黄色の蝶なんだけど、成虫のまま冬を越した個体って翅がぼろぼろで茶色っぽくなってることが多いんだよ」
「生態的な解説どうでもいいわよ!」
「あなた、理解のある人間のようですね」
宇佐木さんは視線をこちらに向けた。
「かつては俺も、虫大好き少年でしたから」
「なるほど……」
俺たちはしみじみと肯き合う。
「ちょっと、二人だけで通じ合うのやめなさいって。結局どういうことよ!?」
「雪音さん……、私には夢が二つあるんです」
雪音に向け、静かに語り始める宇佐木さん。
「夢?」
「一つは昆虫写真家になるという夢。もう一つは、その知識と経験でアイドルとしてより高み、自然系教育番組専門アイドルになるという夢です。今こうして写真を取っているのも、そのためです」
「いや、立派だけど……。それ、アイドルとしては現状より降ってる気が……」
「か、かっけえ!」
宇佐木さんの現在に捕らわれない言葉に、俺は深い感銘を受けた。そして、気づく。
「……そうか、俺のパンに足りなかったのはこれだったんだ」
「あんたはあんたで何を言ってんの?」
俺はこの日、大きなインスピレーションを得たのだった。