第10話
事務所の一角で俺と高橋はチラシづくりに取り組んでいた。ちなみに、綿貫さんは厨房で婆様にパンの焼き方を教わっている。というかあの子、ここのところ毎日シフト入ってるけど、勉強とか大丈夫なんだろうか、という疑問はひとまず心の隅に置いておくことにしよう。
「よし、とりあえず自力で頑張ってみるわ、高橋はアドバイスくれ」
「あいよ」
高橋が持ってきたノートパソコンを机に置き、開いたところで俺の手は止まった。
「どうした?」
「……これ、どうやって電源入れんの?」
「よし、俺がやるわ。どけ」
早々に見切りをつけられてしまった。このままでは俺のプライドに関わる……!
「いや、冗談だって! マジマジ!」
「じゃあ電源入れてみろよ」
考えろ、全自動洗濯機と同じように、パソコンにも電源ボタンがあるはずだ……。
「こんな真剣にキーボード見つめる奴初めて見たわ」
高橋が何かごちゃごちゃ言っているが、俺は既に気づいていた、「enter」と書かれたボタンの存在に。enterとは「入る」の意、つまり……。
「これだな!」
無音。あれ?
俺が硬直していると、高橋が隅の小さなボタンを押した。すると、起動音と思しき音声が事務所に響く。
「なんかもう怖いわお前」
「いや、これひっかけじゃん!」
「何がひっかけだよ……、お前そもそもパソコン使ったことあんのか?」
呆れたような物言いの高橋。
「あ、あるし! 和文タイプだって打てるし!」
「凄いけど、その凄さどうでもいいわ」
というわけで、俺は開始五分持たずに交代ということになった。
「ほれ、レイアウトはこんな感じでどうよ」
「おー、いいじゃん」
適度な余白に彩度を抑えた目に優しい配色、なかなかキャッチーなチラシが出来上がりそうである。
「ただ、店の名前もうちょい大きくしたいかな」
「それはいいんだけどよ……」
高橋は腕を組んで、こちらを見る。
「この店の名前って、なんなの?」
「あれ、知らないの?」
まさかである。
「いや、お前は『ウチの店』としか言わねえし、店の前に看板もねえし」
「店の名前ね……、あー……、なんだっけ。ちょっと婆様に聞いてくるわ」
「おいおい」と呟く高橋を置いて、俺は厨房に向かった。
で。
「『知らん』だって」
「どうなってんだ、この店……」
頭を抱える高橋。
「役所に出す書類に屋号書いたから、名前はあるんだよなあ」
「そりゃ名前はあるだろ」
事務所のキャビネットを漁り、それっぽい書類を一枚取り出す。
「おっ、これこれ、えーっと『水森庵』だって」
「なんか和菓子屋みたいな名前だな……」
日も沈み、街に灯がともり始める頃、ついにチラシのデザインが完成した。
「よし! これでいいだろ」
「いいな!」
高橋と視線を交わし頷き合う。
「いや、本当にありがとうな」
俺は高橋に頭を下げた。マジ感謝である。
「ま、俺も結構楽しかったからな、いいって」
高橋は照れ臭そうに鼻頭を掻きながら、そう応えた。
「それで、まあお礼と言っちゃアレなんだけど」
「なに、お礼? いや、いいって」
「そんなこと言わずにさ、受け取ってくれ」
俺は棚から一枚の紙を取り出し、高橋に渡す。
「……えっと、これは」
「割引券」
衝撃の六割引(会計時の金額から、500円以上の買い物に限る)である。
「……俺、今日けっこー手伝ったよな?」
「うん、ほんと感謝してる」
「で、それ対するお礼がこれだよな?」
「そう」
高橋はもらった割引券をしばらく凝視したあと、顔を上げた。
「……なんだこれ! 労働ナメんな!」
券は机に叩きつけられた。なんて奴!
「せめて無料券とか、土産にパン持たせるとかだろ! なに割引券って!? ちょっと金落とさせようとしてるのが、すげー腹立つ!」
「ああ? こういうのは気持ちだろうが!」
騒音に激怒した婆様が事務所に突入してくるまで、俺たちは取っ組み合いをしていたのだった。
楽しかった。




