2.もう一人の訪問者
もし、彼のことを好きではないのだとしたら、果たして婚約してても良いのだろうか。
そりゃあ、政略結婚なんて貴族にはよくある話ではあるけれど、できるなら結婚は好きな人とするほうが上手くいくだろうし好きな人としてみたい。
気になることはもう一つある。
今の私はサフロのことがいまいち分からなくても、記憶喪失になる前の私が彼のことをものすごーく好きだったとしたら?
お互いそこそこの好意で婚約したのなら義務として折り合いをつけることができるだろうけれど、大恋愛の末の婚約だった場合、二人の「好き」に偏りができてしまうことになる。
それは相手に対して失礼なんじゃない?
再び悩み始め、一人自分の世界に入ろうとしていたところ、私の婚約者様が立ち上がった。
「ぼくはまだ来ないほうが良かったかな。君を困らせてしまったようだね」
「あ、ごめんなさい」
「また日を改めて出直すとするよ」
部屋を出ようとするサフロを私も追いかける。
「その、来てくれてありがとう」
私が彼を好きか嫌いかは置いといてお見舞いに来てくれたことには感謝しなくちゃね。
「ふふ、感謝の気持ちは言葉よりキスが良いかな」
「こら、調子に乗らない!」
腰を引き寄せられるが、手で突っぱねて全力で拒否する。
周りから婚約者だと言われようとも、記憶のない私には、やっぱりサフロはよく分からない他人にしか思えない。そんな奴とキスとか無理!
しかし周りからはまるで微笑ましいものでも見るかのような生温かい視線を送られる。
これ、絶対「仲のよろしいですこと」とか思われてる!
キスをするしないの攻防を繰り広げていると、半分開いたドアから何やら騒がしい物音が聞こえてきた。
「何かあったの?」
「すぐ調べて参ります」
帰ろうとしていたサフロをその場でとどまるよう促し、使用人の一人が部屋を出ていく。
喧騒は誰かが言い争っているようだった。
男の人が何かを叫び、数人がそれをなだめているような。
声は若い。
低くて透明感のある澄んだ声だ。
「お嬢様、いけません!」
私のことをよく世話してくれる侍女の咎めを聞こえなかったことにして、私はドアから廊下を覗いた。
「一目だけでもいいんだ。会わせてくれないか」
「なりません。お嬢様はまだ絶対安静で」
「すでに床を上げたと聞いたが?ノーグス子爵の令息が今日見舞いに行くという噂も流れていた」
男の人は使用人たちの壁に阻まれていたけれど、長身のため顔がよく見えた。
サフロのような華やかさはない。しかし、整った造形をしている。
少し長めの髪は黒曜石、瞳は高級なガラス細工のような青色だ。
サフロが陽光を受けた花のような有機的な美なら、この人は著明な芸術家が作った彫刻のような無機質な美だろうか。
おっと、同じ人間に対して無機質は失礼かしら。
着ているものは簡素なコートだ。けれどよくみれば素材は高級なものを使っている。全体的な色合いも統一されていて趣味が良い。
胸ポケットから金の鎖が垂れているけれど懐中時計?
輝きからして純金であることは間違いなさそう。
「お願いだ、会わせてくれ。あんなことになって無事な姿を確認したいんだ」
あんなこと、とは私が落ちたことかしら?
あの人もサフロ同様私を見舞いに来たの?
それならばお会いした方がこの場は治まりそうよね。
私が廊下に出ようと一歩足を出したところで今度は侍女頭が眉間に皺を寄せつつ強い声で止めた。
「お嬢様、どうぞお部屋にお戻りください」
侍女頭の気迫に気圧されて後ずさる。
「なぜ?」
「あの者はお嬢様の害にしかならないからです」
「でも怪我した私をあんなに心配してくれているわ」
そう、悪い人ではないはず。
「少し顔を見せるだけでも」
「なりません」
「ほんとにちょっとだけ」
「なりません」
「ええー」
何を言っても頑として侍女頭は首を縦に振らない。
その間も廊下の騒動は続いている。
使用人たちの拒否っぷりもすごいけれど、是が非でも私に会おうとする彼も頑固だ。
「リシリーに会わせてくれ。彼女には伝えなければならないことがあるんだ!」
唐突に名前を呼ばれてビクッとなる。
何故だか胸のあたりがざわざわする。
呼ぶ声、自分の名前にわずかな甘い響きがあるような気がして身体が硬直した。
これは何なのだろう。
私は戸惑いながらも周りを見渡した。
私を囲む使用人たちを見る。
侍女頭じゃダメだ。絶対答えてくれない。
使用人たちの中から私と同じくらいかそれより年下の侍女を探して声をかける。
逃げられないよう腕を掴んで。
「ねぇ、彼は誰?私の知り合いよね」