1.知らない恋人
ちょっとだけ覚えていることがある。
それは本当に一瞬のことで、どんな場所でそうなったかとか周りに何があっただとか、ましてや近くに誰がいたか、なんてさっぱり覚えてはいない。
けれど、落下していく私を驚愕の目で見る誰かがいて、その人が私の名前を叫んで私をつかまえようと手を伸ばしてくれたことだけは覚えていた。
誰かはわからない。
髪の色も目の色も、どんな容姿をしていたかとか全然。
なんで私の頭はこんなにぽんこつなのかなぁ、と悲しくなる。
絶対に思い出さなければならないことのはずなのに。
だって、その唯一の出来事を思い出すとき、私の胸がきゅっとなる。
苦しくて泣きたくなる。
私の名を叫び、落ちていく私を助けようとした人。
多分それは私の愛しい人。
あなたはだれ?
私はいつも問いかける。
私の胸をこんなにも締めつける、あなたはだれ?
◇◆◇
「だからー、それは僕だって」
弾んだ明るい声が間に入り、私は話をするのをやめて紅茶を一口飲んだ。
「リシリーが三階のバルコニーから落ちたとき、僕もその場にいたからね」
「んー、それは聞いたけど……」
「もちろん助けようとしたし君の名も呼んだよ」
「んー、そうなのか、なぁー?」
「何か気にかかることでもあるの?」
「んんーーーーーー……」
首を傾げ、うんうん唸る私を翡翠の目が覗き込む。
陽光を受けて金色に輝く前髪がさらりと揺れ、形の良い口が孤を描いた。まつ毛が長いのが羨ましい。
令嬢たちの間で密かに新緑の君と呼ばれている美青年、彼の名前はサフロ=ノーグス。
私の婚約者、らしい。
“らしい”というのも、彼のことも全く覚えてないからだ。
サフロやお父様らしき人やお母様らしき人がそう言うから、私の婚約者なのだろう、と信じるしかない。
今日、彼は私がベッドから起きられるようになったので、お見舞いと婚約者として親交を深めようと私の家に来ていた。
で、あの時の話になったのだが……。
「なんか実感がわかないんだよねぇ」
私が不思議そうな顔をするたびに、周りの人たちが私のことや状況を教えてはくれる。
けれど見えているのに重みのない雲を掴むみたいにもやもやとした気分になる。
唯一覚えているあの人がサフロで、そして彼が私の婚約者であるということもまた、まるで雲だ。
「ねぇ、本当にあなたは私の婚約者なのよね?」
「そうだよ。僕のこと、嫌い?」
「うーん……顔は好き」
「顔も好き、でしょ?」
「顔は、好き」
「顔は、ねぇ……」
でも好きなのは顔だけ。サフロのことを見てもあのきゅっと胸が苦しくなる切ない気持ちにはならない。
気楽だし、嫌ではないけれど……本当に私は彼のことが好きだったんだろうか。
「あーもやもやする!こんな状態、一ヶ月も続いてるよ!!」
私は堪らず叫んだ。もう一ヶ月だ。自分のこともわからない。周りも教えてはくれるけど知らない人だらけ。
ここはどこ?私はだれ?なんて物語の中だけのことだと思っていた。
どうやら私の名前はリシリー=オルタティアというらしい。
私は一ヶ月前、自分の屋敷の三階から落ちて記憶喪失になっていた。
「でも、記憶喪失になっただけで良かったよ。あの時は本当にもうダメかと思ったからね」
秋の花が咲き乱れる庭園の見える一室。
華麗な刺繍が施されたクロスの敷かれたテーブルに身を乗り出して、サフロが私の手を取った。
「生きてるだけで充分」
手の甲にちゅっと可愛らしい音を立てて口づける。
「ね?」
悲しそうに翡翠の瞳が揺れる。キスをされた手をさらに軽く握られる。
口には出さないがその仕草は「心配したんだからね」と代弁しているかようだった。
何だかねぇ。
恰好良いサフロがこういうことをすると、すごくさまになる。
ただ、さまになりすぎててなんだか違和感があるのだ。
たぶん女の子だったら、こんな感じに心配されたら皆が皆、赤くなると思う。
思うけど、言ってはなんだがちょっと胡散臭いというかなんというか……あざとい?そんな感じに私には見えるのだ。
こんなことで私は彼のことを好きと言えるのだろうか。