エルヴィン陛下の来訪
「うぅーっ、オペラよりも先にやるべきでした……」
王宮に滞在して初日の夜、私は王女の婚約を祝う曲の楽譜起こしに精を出していた。
「おや、組曲なんだね」
「ええ。あまり婚約を祝う感じではないのですが、なかなかよいのが見つからなくて。あ、こっちは出来てます。写譜をお願いします」
クリストフも巻き込んで楽譜を部屋中にまき散らしながら写譜を進めていると、困惑した様子のエドが部屋に入ってきた。
「先触れがあったんだが……エルヴィン陛下がこれから来るそうだ」
「……は? え、ちょっと、ええと、どうすれば……」
「マイスター! 片付けないと!」
クリストフに言われて慌てて3人で部屋を片付ける。なんでまたエルヴィン陛下が? 一介の音楽家のところに簡単に顔を出したりしていいの? などなど、疑問は尽きないが、まずは手を動かす。
「おおおお茶とか、出した方がいいの?」
「エド、その辺の侍女を呼んできてくれるかい?」
「承知した」
片付けてからもバタバタと慌てふためく私だが、クリストフが気を回してくれて助かった。
「マイスターは髪を整えておいで。先ほど頭を抱えていたからアルプが来た後みたいにぐしゃぐしゃになっているよ」
「へ……? わーっ、大変!」
クリストフに指摘されなければぐしゃぐしゃのまま対面するところだった。
髪を直して戻ってくると、エドが連れて来てくれた侍女がテキパキとお茶の準備を始めていた。
私たちが宿泊する部屋は2間続きで、奥が寝室になっており、手前が丸テーブルと椅子が4つ置いてある応接スペースになっている。大きなソファもあるが、諸事情により使用していないものを運び入れてもらったものであるため、応接に使うには相応しくなかった。
「ど、どこに座ってもらえば?」
「マイスターがホストだから、君の右隣が陛下だ」
日本の上座すらちょっと危うい私が戸惑っていると、クリストフが教えてくれる。通常はホストの右隣に異性の主賓、左隣は異性の次客を座らせるようで、夫婦など招く側が2人の場合はそれぞれがテーブルの両端に着き、それぞれの隣に異性の主賓を座らせるものであるらしい。
「クリストフがいてくれて助かりました」
「王宮にいたからね。役に立ててよかったよ」
そんな話をしていると、侍従を先頭に陛下が入って来た。陛下の後ろにはもう1人、ドロフェイがいた。
「寛いでいるところをすまぬ」
「いえ、とんでもございません。どうぞお掛けください」
緊張で引き攣りそうな顔をどうにか笑顔に変え、事前にクリストフから聞いた通りに席を勧めると、侍従はエドが呼んだ侍女の元へと下がり、エルヴィン陛下が私の隣に、ドロフェイがエルヴィン陛下の向かい側に座った。
ふうん、ドロフェイも同席するんだ?
ちょっとだけ意外に思ったが、そういうものかと自分も座ると、エルヴィン陛下が早速話を切り出した。
「協奏曲の演奏会も近いであろう? 其方が練習できるよう、ピアノの間を空けてあるのだ。夜でも響かぬようにしてあるゆえ、自由に使うとよい」
「それは助かります。お心遣いに感謝いたします」
意外な気遣いに思わず頬が緩んだ。即位式が終わるまでは協奏曲の練習ができないだろうなと思っていたのだ。夜も使えるなら即位式の合奏が終わった後に練習できるからとても助かる。
「構わぬ。私も楽しみにしておったのだが、ドロフェイに言われるまで気が回らなかった」
陛下の言葉でドロフェイに視線を向けると、ドロフェイはお道化たような笑みを浮かべてこちらを見た。
「エルヴィン様、私は渡り人様のヴァイオリンも聞きたいのです」
またそれか……と思いつつ、部屋の片隅に置かれたヴァイオリンをちらりと見る。時間があればクロイツェルの練習もしたかったので、今回はザシャがもう1つ作ってくれた改良版ヴァイオリンを持参しているのだ。
ピアノの練習について口添えしてくれたことだし、と思って私は口を開く。
「陛下にご満足いただけるかわかりませんが、よろしければ一曲演奏いたします」
「ほう、それは聞いてみたい。ではピアノの間に移動しよう。ドロフェイ、伴奏を頼む」
エルヴィン陛下の言葉に私は目を瞬いた。ドロフェイが伴奏? ピアノを弾けるなんて初めて聞いたんだけど?
驚きながらも冬に出版したロマンス作品集とヴァイオリンを手に、ピアノの間へと着いて行った。
「この曲を演奏しようと思うんだけど……」
「どれでも構わないよ」
ドロフェイに尋ねると簡単に返事をされてしまう。
私が選んだ曲はパガニーニの『カンタービレ ニ長調』だ。パガニーニには珍しい明るくてやわらかい雰囲気を持つ曲だ。
出だしはピアノとヴァイオリンが同時だ。ドロフェイと視線を合わせると、なんだか不思議な感じがした。
カンタービレ。歌うように。
ドロフェイの伴奏は完ぺきだった。クレッシェンドもデ・クレッシェンドも、テンポもしっかり合わせてくる。後半、伴奏が途切れる箇所からラストにもう一度伴奏が入るタイミングも完璧。最後のヴァイオリンの長音に合わせてピアノが下っていく部分も私好みの余韻の持たせ方だ。
演奏が終わってドロフェイを見ると、毒のない穏やかな笑みを浮かべていた。
私はと言えば、自分の内心をひた隠すのに必死だった。
それはアロイスのあの音を聞いた時に似ている感覚だ。ドキドキしてざわざわする感じ。
ドロフェイのことはつい先日に気を許してはダメだと実感したばかりだったのに、心が解けていく感覚がする。
「よい音だ。そのヴァイオリンは普通の物とは違うようだが、それも渡り人の世界の物か?」
エルヴィン陛下の声に我に返り、私は慌てて答える。
「恐縮です。音が響くように弦を強く張ってあるのです」
「ヴァイオリンの協奏曲もそのヴァイオリンを使うのか?」
「そうですね」
エルヴィン陛下は物珍しそうにヴァイオリンを見ていたが、ほどなくして言った。
「遅くにすまなかった……また訪ねてもよいだろうか?」
「もちろんでございます」
先触れをもっと早くもらえるなら、と心の中で付け加え、私は笑顔で応えた。
◆
翌日、合奏練習をして部屋に戻ると、シルヴィア嬢が訪ねてきた。
「半年ぶりですわね。皆さまお変わりございませんこと?」
「ええ、律さんもまゆりさんも頑張っていますよ」
近況を報告し合い、久しぶりの会話を楽しむ。
「昨日はエルヴィン陛下が突然いらっしゃって、慌ててしまいました」
「まあ、そうでしたの」
よくあることなのかと思って聞いてみれば、非常に珍しいことだとシルヴィア嬢は言った。
「アマネ様は渡り人でいらっしゃいますから、お立場的には同等ですし、不自然というほどではありませんが……」
「ええ。今回は一指揮者として滞在しておりますからね」
陛下は王宮のホストで、今回の私の立場は客ではなくその家臣ということになる。陛下が国外からの来賓や大領主に出向くことはあれど、私のような一介の音楽家に会いに来るのは珍しいだろうとは思っていた。
「エルヴィン陛下は何か気がかりなことがおありなのかもしれませんね」
「そうですわね。ヴィルヘルミーネ王女も秋にはヤンクールに向かわれますものね」
ヴィルヘルミーネ王女は秋にご婚約をされた後、すぐにヤンクールへと向かうらしい。冬になる前にヤンクールで式を挙げ、ご結婚となるそうだ。
「ではシルヴィア様も秋にはヤンクールに?」
「そうなりますわ。寂しいですけれど、旦那様はお優しい方ですし、少し楽しみでもありますの」
シルヴィア嬢が嫁がれるのは私にとっても寂しいことだったが、幸せそうな様子を見れば素直に祝福したいと思えた。
「シルヴィア様、ご結婚の際に曲をお贈りすると申し上げましたが、実はすでに書き上がっているのです」
「まあ、嬉しいですわ。早く聞きたいところですが、秋まで楽しみにしておりますわね」
「ええ。その代わりと言っては何ですが、歌を王都に流行らせてみませんか?」
私は『側にいることは』を流行らせる企みをシルヴィア嬢に話した。実は宿屋の女性たちやヘレナとその友人たち、そして、私設塾の子どもたちから、フルーテガルトの街では全体に広がりつつあるのだ。
「おもしろそうですわね。では、次に来るときはヴィルヘルミーネ王女も誘ってみますから、その時に歌ってくださいな」
「えっ、王女の前で歌うのですか? うわー、なんか恥ずかしいです……」
「ふふふ、言い出したのはアマネ様ですもの。それぐらいはしていただかないと」
そういう展開になるとは予想外で慌ててしまうが、ヴィルヘルミーネ王女がもし訪ねてくるのだとしたら、ナディヤも一緒に来てくれるかもしれない。オーボエパートで一緒だったクリストフもきっと喜ぶだろう。
「では練習しておかなければなりませんね」
「ええ。マナーの練習もお忘れなく。ほら、背中が曲がっておりますわよ!」
ぴしゃりと指摘され、私は慌てて背筋をピンと伸ばしたのだった。
◆
その夜、寝室で楽譜を起こしていた私は、覚えのある気配に顔を上げた。ちらりと隣の部屋の気配を伺うが、クリストフはもう眠っているのか静まり返っている。
「ピアノが弾けること、どうして教えてくれなかったの?」
どこにいるのかはわからなかったけれど、どうせどこかで聞いているのだろうと私は先んじて聞いてみる。
「フフフ、秘密は多い方が楽しいだろう?」
気が付けば寝台にドロフェイが腰かけていた。
「あんなに素敵に演奏できるなんて、なんか悔しい!」
「ははは……キミは怒った顔もおもしろい、ね」
ドロフェイはよく私の顔を見ておもしろいと称するが、それってとっても失礼だと思うのだ。
でもこういう言い方をする時のドロフェイは割と機嫌がいいような気がする。
「ねえ、聞いてもいいかな?」
「答えられるかわからないけど、それでもいいならどうぞ?」
私は前から不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
「ヴィーラント陛下の殺害を指示したのってゲロルトなんだよね?」
「まあ、そうかな」
「ゲロルトと癒着していた役人を、陛下が罰することにしたからって私は聞いたんだけど、そこまでする必要があったの?」
この世界だって誰彼構わず殺害していいような世界ではない。
「ゲロルトはその役人に脅されていたのさ」
「何か弱みでも握られていたってこと?」
「その役人はゲロルトが火の加護を持っていることを知っていたのさ」
魔力を持っていることを知られれば、徴兵されるか教会に保護とは名ばかりの軟禁をされるかだ。
「でも、どうしてその役人じゃなくて陛下を?」
国王を殺害するなんて、とんでもなく大変なことだと思うのだ。こう言ってはなんだが、役人の口を封じる方がまだ簡単な気がする。
「ゲロルトにとっては価値があったんじゃないのかい? その辺りは僕は知らないけれど」
うーん……。釈然としないけれど、知らないと言うならばこれ以上聞いても仕方がない。
だが、よくよく考えてみれば、諸悪の根源はドロフェイなのではないだろうか。だってゲロルトの魔力はドロフェイが引き出したものだ。
「ゲロルトもアロイスも、2人ともドロフェイのせいで不要なものを背負わされちゃって……かわいそうだよ」
私はたぶんドロフェイを嫌いになりたくないのだと思う。本当はこんな風に言いたくないと思っている自分がいる。
「ふうん。キミはゲロルトの加護も僕の仕業だと思っているわけだ」
「えっ、違うの?」
私を流し見るドロフェイの言葉に驚愕する。
ユリウスの話を聞いてそうだと思い込んでいたのだが、違うのだとすればいったい誰がゲロルトの加護を目覚めさせたのだろう。
「さあ? 僕には関係のないことだし、関心もないよ。けれど別に構わないじゃないか。便利な術を使えるようになるのだから」
ゲロルトの加護については気になるが、ドロフェイが加護を軽く考えていることにもやもやする。
「いずれにしても、もらった物をどう使うかは本人次第だろう」
「そんなの……無責任だよ!」
うまく伝わらないのが腹立たしくて、言い方がどんどんきつくなる。
「キミはゲロルトの味方をするのかい?」
「そうじゃなくてっ……アロイスのことだよ」
加護の話になるとアロイスの姿が思い浮かんでしまうのだ。だからこんなに苛立つのだろう。
「確かに僕はアロイスの加護を目覚めさせたけれど、その時点で彼が君を慕うかどうかは確定していなかっただろう?」
「そうかもしれないけど……」
アロイスが目の色の変化を自覚したのは6月のはじめ。私がアロイスと初めて会ったのは5月にオペラを見に行った時だったけれど、本格的に関わるようになったのは7月の演奏者たちとの顔合わせ以降だ。
ドロフェイの言う通り、アロイスが私に対してどういう気持ちを抱くのか、6月の時点ではわからなかった。それに6月の時点では演奏者も決まっていなかった。
しかし、だからと言って納得はできない。
「だけど、やっぱりアロイスが可哀そうだよ」
「仕方がないさ。ジーグルーンに恋をする者は、みんな悲しい思いをする運命なのさ。僕が加護を目覚めさせなくても、ね」
それはユリウスも、ということだろうか。私はドロフェイから視線を逸らすことができずにじっと見る。
ドロフェイは笑おうとして失敗したみたいな顔をしていた。