シュネッケ
アマリア音楽事務所の休日前の夜のことだ。
私は自室で寝台にだらしなく寝そべって、ヴィルヘルミーネ王女の婚約を祝う曲をどうしようか考えていた。
侍従長からは渡り人の世界の音楽でも私が作曲したものでもどちらでも良いと言われているが、音楽の伝道師としては、宗教が絡まないなら渡り人の世界の曲を提供したいところでもある。
オーケストラの曲が良いというリクエストがあるようなので、R.シュトラウスの『ばらの騎士組曲』がパッと浮かんだが、例によって金管楽器問題がある。
モーツァルトの『フィガロの結婚』の序曲なんかも華やかでわくわくする感じが私は好きだが、演奏時間が5分程度と短い。
交響曲でお祝いとなるとマーラーの9番とか、ベートーヴェンの7番、9番あたりかな。マーラーはやっぱり金管がネックになる。ベートーヴェンは……
そんなことをゴロゴロしながら考えていた時、静かな足音が聞こえてきた。
あ……この足音…………
聞き覚えのある足音に動揺した私は、毛布に潜り込んだ。だって来週って言ってたのに。ゴロゴロしてたから髪だって寝衣だってぐちゃぐちゃだ。予告してくれたらちゃんとしてたのに!
コンコンとドアがノックされ、毛布から顔だけを出した私は情けない声で問うしかなかった。
「……ユリウス?」
「アマネ、戻ったぞ。入るぞ」
「…………うん」
部屋に入って来たユリウスは私を見て眉間に皺を寄せた。そんな顔を見るのも久しぶりだ。
「なぜシュネッケになっている」
「だって……突然なんだもの」
シュネッケとはドイツ語でカタツムリのことだ。今の私の状態を的確に表しているが、久しぶりに顔を合わせた第一声がシュネッケなんて微妙すぎる。
萎れた表情の私を見てユリウスは僅かに口元を緩めると、サイドテーブルに持っていた紙束や袋を置き、ものすごーく嫌そうな表情を張り付けて毛布を被ったままの私にハグをしてきた。
「ただいま」
「うん。おかえりなさい」
頬に触れた唇がひんやりしていて驚く。ハグをしたまま頬をすり合わせるが、すごく冷たくなっていて心配になる。
「帰って来てすぐにこちらに来たからな。小雨が降っていたぞ」
「大変! 風邪引いちゃうよ!」
焦った私は自分が被っている毛布を広げてユリウスを包んだ。
「ぬくいな」
寝具に潜り込んだユリウスは、ほうと息を吐いた。寒かったのだろう。
「手がまだ冷たいよ? 大丈夫?」
ユリウスの手をぎゅうっと握って温める。アロイスが魔力を使った後みたいだと思った。
「あのね、手紙には書かなかったんだけど、アロイスが水の魔力持ちだったんだよ」
誰が読むかわからない手紙には書けなかったアロイスの魔力について、私はユリウスに話をした。アロイスには事前に了承を得ている。エルヴェ湖での奉納に水の魔力が必要なことも伝えなければならないし、今までどうしていたのかを聞かれるだろうと思ったからだ。
「しかし、カルステン殿はそんな話はしていなかったが……」
「正確なところは知らないって言ってたし、聞きかじったって言ってたから……」
アロイスについてはそれほど驚かなかったユリウスだが、エルヴェ湖に関しては難しい顔をして考えている。
「ふむ……カルステン殿も知らぬ話なのか…………まあいい。それよりも手紙だ」
手がようやく暖まったユリウスは、サイドテーブルに置いた紙束を手を伸ばして取った。
2人でうつぶせになって紙束を覗き込む。
「この最後の文字はお前の国の言葉だろう? 何と書いてあるのだ?」
「ふふっ、1通目はね……」
私はひとつずつ日本語の読みとドイツ語訳を教えていく。1通目は「がんばれ」、2通目は「まってるね」、3通目は「だいすき」、4通目は「あいたいな」だ。
3通目のドイツ語訳は恥ずかしいので秘密ということにして、読み方だけを教えた。ひとつずつ私の音を真似るユリウスが「だいすき」を言った時は、顔が真っ赤になってしまって頭から毛布に潜り込む羽目になった。
「スラウゼンはどうだったの?」
「雪が多いとは聞いていたが、あれほど降るとは思わなかった」
ユリウスの話ではスラウゼンでは雪をよせる端から積もっていって大変だったらしい。2月の前半の大雪では気温も低く、川も凍り付いて船での移動もできなくなったそうだ。
ザシャはスラウゼンの子どもたちからスキーのような雪遊びを教わって、暇さえあれば遊んでいたようだ。マルコは暖炉の前を占拠して居眠りに精を出していたとか。
「ザシャとマルコはまだスラウゼン? マルコはアールダムに行くって手紙に書いてたよね?」
「2人も共に帰って来たぞ。そのうち事務所に顔を出すと言っていた。ああ、そうだ。リーンハルト様からおもしろい物をもらったのだ」
そう言ってユリウスが取り出したのは消しゴムやゴム生地のコートだった。
「これってレインコート?」
「ああ。ゴムは以前からあったのだがな、体温程度の温度で伸びてしまってあまり実用性がなかったのだ。これらはアールダムで作られたゴム製品で、リーンハルト様が取り寄せたそうだ」
私のぐしゃぐしゃの髪を手櫛で整えながらユリウスが言う。こそばゆさに首を竦めた私だったが、ゴム製品の中に見慣れないものが含まれているのを見つけた。
「これって何?」
「ああ……混ざっていたか」
ユリウスが気まずそうに目を逸らす。
「何、その反応?」
「いや…………これは性交に使うものだ」
私の疑うような視線に負けてユリウスが白状する。私はと言えば絶句するしかない。リーンハルト様ってば、何て物をユリウスに渡すのか。
元の世界ではある一定の年齢を超えれば誰でも知っている、保健体育で習うそれ。頭にコがつく避妊具だ。
「ユリウス……使ったりした……?」
「そんなわけあるか。これもアールダムから取り寄せた新製品だとリーンハルト様はおっしゃっていた」
ユリウスにギロリと恐ろしい目で睨みつけられ、私は毛布に逆戻りした。
それにしてもそれが新製品だというのなら、今まではどうしていたのだろうか?好奇心に負けて私は聞いてみる。
「ヘルム教的には避妊具ってありなの?」
キリスト教では確か聖書に避妊NGみたいな話が載っていたことを思い出したのだ。避妊もダメで堕胎もダメなんて女性に優しくないよね、と思ったことがある。
「教会として認めはしないが、この手の物は大昔からあるし、そもそも必要だろう?」
「大昔? そんな昔からあったの?」
ユリウスによれば、昔は石を女性の体に埋め込んだり、水銀を飲ませたりとおそろしい方法が用いられていたらしい。最近は男性側に動物の腸で作られたコのつく避妊具のようなものが使われているという。
「今度クリストフにでも試させるか……」
「クリストフをこれ以上ダメ大人にしないでほしいんだけど」
本当に勘弁して頂きたい。ただでさえ春が近づくにつれて頭が湧いてきているというのに。王宮で一緒の部屋になる私の身になってほしいと言うと、ユリウスが鬼もかくやというような目付きで私を睨んだ。
「なぜそんなことになっているのだ?」
そういえば王宮に滞在する話はまだユリウスに言っていなかった。しかし、せっかく久しぶりに顔を合わせたのに、カミラのことを話題に出したくない。
「ええと、侍従長の厚意でね、」
「…………まあいい。そろそろユニオンも動き出すだろうから、支部より安全ではある」
「ユニオンかー……」
「お前と共に俺も王都に行く。ギルドの方はその時に決着が着くはずだが、その分、過激派の嫌がらせはあるだろうからな」
ユニオンの穏健派については、1月にユリウスが王都に行った際にだいぶ話がまとまったらしい。2月にも会合がある予定だったが、大雪のため集まるはずの者が来られず、3月の会合まで伸びたのだという。
でも決着がつくと言うことは、即位式が終わるころにはクロイツェルを一緒に演奏できるかもしれない!
「ふふ、楽しみ」
顔を綻ばせる私をユリウスは抱き寄せてくれた。相変わらず嫌そうな表情だけど、額に、まぶたに、鼻に、ユリウスの唇が降ってくる。そんな時ですら眉間の皺はそのままで、私は思わず笑ってしまったけれど、唇同士が触れ合う頃には私たちは毛布の中で足を絡めていた。
「ギルドの会合が終われば、俺はテンブルグへ行かねばならない」
「そう、なの……?」
クロイツェルを楽しみにしていた私はしょんぼりしてしまうけれど、ユリウスがテンブルグへ行くのは、以前、私が頼んだマリアの師の件だった。
ユリウスはテンブルグで良さそうな人物を見つけたと言っていたが、その人物から協奏曲の演奏会に合わせてフルーテガルトに来たいという手紙が届いたそうだ。
「足が悪いらしくてな、辻馬車では心配だと言うので俺が迎えに行くことにしたのだ」
「でもテンブルグは遠いでしょう?」
テンブルグまでは片道7日もかかるのだ。
「そうだな。少し長めに滞在するというので、即位式に間に合うように連れてくるつもりだ」
即位式は4月に入ってすぐだ。ユリウスが連れてくる人物は半月ほどフルーテガルトに滞在してくれるらしい。協奏曲の演奏会ではマリアも歌うので、その前にレッスンしてもらえると私としても嬉しい。
「じゃあクロイツェルはその後?」
即位式が終われば2週間後には協奏曲の演奏会だ。王宮滞在中はあまり練習できないだろうから、私もその2週間はガッツリ練習しなければならないだろう。
「協奏曲の演奏会の後にテンブルグまで送らねばならぬから、早くても5月になるな」
5月……2か月以上も先だ。しかも5月に入れば今度は朗読劇の準備で慌ただしくなるだろう。楽しみにしていただけにシュンとしてしまう。
落ち込む私の唇をユリウスが食む。絡まった足でスリスリと互いの足を刺激し合うと、私の心臓は壊れるんじゃないかと思う程にドクドクと音を立てて、ぎゅうと絞られているみたいになった。
「クロイツェルは先になるが、その時は…………」
耳元で囁かれた言葉に、頬を熱くした私が頷いたのは言うまでもなかった。