楽譜ライブラリーと楽器博物館
「[アマリア]って渡り人の世界の文字だよねー?」
協奏曲の演奏会用に配っているチラシを見てジゼルが問う。
まゆりさんに作ってもらったロゴマークは最初はひらがな表記だったのだが、スタンプを彫ったり刺繍をする際に直線的なカタカナの方が作りやすいということで修正されたのだった。
「そうですよ。それがどうしましたか?」
「[マ]はまゆりさんの[マ]と同じでー、[リ]はりっちゃんの[リ]と同じだなーって思って」
一緒に暮らすまゆりさんと律さんの名前を挙げるジゼルは、2人の名前のカタカナ表記を見たことがあって覚えてしまったらしい。
「言われてみればそうですね」
「でもー、ジゼルはどこにもないのー」
アマリアはアマネとマリアをくっつけたものだったが、ジゼルの言う通り偶然ながらまゆりさんと律さんの名前も含まれる。けれどジゼルの名前は含まれておらず、それが不満であるらしい。
「うーん……偶然なんですけど……ジゼルの名前を入れるとしたらどうしたらいいのかな?」
「何だっていいわよ。それよりも忙しいんだから遊んでちゃだめよ!」
忙しさのせいで適当な返事をするまゆりさんだが、こういう時の彼女を怒らせると碌なことにならない。
「はーい!」
私とジゼルは良い子の返事をするのみだ。
時はあっという間に過ぎて2月の後半となった。
雪が徐々にみぞれとなり、最近は雪から雨になる日が増えている。降り積もった雪も少しずつ解けていき、道の両脇には冬の間に寄せた雪の塊が崩れそうな状態で残っていた。
そんな天気の合間を見て、エルヴェシュタイン城にはヴェッセル商会から楽器が大量に運び込まれているのだ。
楽器博物館のためだ。
テオが作った『道の駅』の企画書では、博物館は城の本館3階に設けられることになっていた。
ピアノなどの大きな楽器を3階まで運ぶのは大変だが、2階は『道の駅』の試食や律さんが作った布小物などを飾るスペースとして使うことになっているのだ。1階は下働きの者が使うような狭い入り口しかなく、ピアノが運び込めるような入り口は裏側に回らなければならなかったため、3階に設けられることになった。
「1階は北館とも繋がっとるけんね。演奏者さんたちが寝泊まりする時には本館の1階に飲食できる場所を作ったらよか」
4月の第2週には劇場の演奏者たちが来てゲネプロが行われ、第3週には協奏曲の演奏会が行われることになっている。
演奏者たちは北館で寝泊まりすることになる。本当は街に降りてほしかったのだが、街まで行くと片道30分近くかかるため、食事は街にある飲食店の協力の元、城の厨房を使って提供されることになった。
「演奏者の女性たちは宿屋を使うって言ってたわよね?」
「ええ。こちらで宿代を持つことになりますけど3名ですし。行き来も馬車を1台借りようと思うんですが、予算的に大丈夫でしょうか?」
協奏曲の演奏会が終わると、次は朗読劇とバレエの演奏会を6月に行う予定だ。スケジュールも厳しいが、予算をそちらにも残しておかなければならないのだ。
「アマネちゃんが楽譜を頑張ってくれたから問題ないわよ。それに即位式の報酬も入ったもの」
即位式は4月の初めにあるが、王宮に楽譜を納めた後に報酬が振り込まれていた。葬儀の時の報酬の3倍だ。お祝い事ってこんなに大盤振る舞いするものなのかと驚いた。
「朗読劇が終わったら、次の月は王都で客演でしたよね」
「ええ。客演は私とアロイスだけですので、ダヴィデはレッスンをお願いしますね。8月には生徒さんたちの発表会がありますから」
8月にホールを使うのは暑いのではないかと思ったのだが、門兵たちによればエルヴェ湖の水温が低いせいか、エルヴェシュタイン城は夏でもそれほど暑くはないらしい。ヴィーラント陛下はその点についても気に入っていて、避暑に訪れることもあったようだ。
「目標はオーケストラを作って交響曲を演奏することですから。私も早くピッコロを演奏したいです」
偽家庭教師事件では良い印象がないベルトランだったが、音楽に対する情熱はあるのだ。ベートーヴェンの交響曲第5番を演奏してみたいとピッコロの練習も始めたようだ。いや5番をやると決まっているわけじゃないし、楽譜もまだ起こしていないんだけどね。
それにしても、改めて年間予定を考えてみれば、やることが多すぎて大丈夫かと不安になる。
「アマネしゃん、譜面台はどうすると?『道の駅』が始まる前に運んだ方がよかですよ」
「明日にはラースが手伝いに来てくれると言っていましたから、ラウロやエドと協力して準備しておいてください」
人が出入りするようになると、荷物の運び込みが難しくなる。テオに指示を出し、今度はジゼルに向き合う。
「プログラムはどうなりました?」
「エグちゃんのところで止まってるよー」
「ああ、曲の解説ですね。エグモントさん、進捗はどうなってます?」
「そうであったそうであった。ヴァイオリン協奏曲と歌曲はできているのであるが、ピアノ協奏曲はまだであるな。下書きは出来ておるのだが、アマネ殿に見てもらう前にカスパル殿に目を通してもらおうと思っておるのだが、あの男はいつ行っても吾輩が声を掛けても全く気付かずに一心に戯曲を書いておるからして……」
「先に私が見ましょう」
話し出したら止まらないエグモントに付き合っている暇はない。これから楽譜ライブラリーの準備もしなければならないのだ。
楽譜ライブラリーはとりあえずは1室あればよいので、楽器博物館の一角を使うことになっていた。
「アロイス、展示リストってできてますか?」
「出来ておりますよ。楽譜の販売はされないのですよね?」
「ええ。街に降りて買ってもらいたいのです。スタンプラリーのラリーポイントにもなりますし。あ、エド、スタンプってもう出来てましたっけ?」
「ああ。ラウロも出来ているはずだ」
あちこちに声を掛けながら、大量の楽譜を手に楽譜ライブラリーの一角にアロイスと向かう。
「うっ、お、重い……」
「一度にたくさん持ちすぎですよ」
途中でバテた私の手からアロイスが半分以上の楽譜を奪って、自分が持つ楽譜の上に乗せた。
「しかし、お元気になられたようで安心しました。荒療治が効いたようですね」
片目を閉じたアロイスがにっこり笑って言う。
「……2度と体験したくはないですどね」
確かにアロイスの言う通り私の食欲は通常までに戻っていた。大泣きしたのが良かったのか、食べた後に吐き戻すようなこともなくなり、どうにか秋の初めころくらいまで体系も戻っていた。
ユリウスのことを考えないわけではなかったが、やることや考えることが多すぎて悩む暇がなかったということもある。
「ほんと、この忙しい時にクリストフは何をやっているんでしょうね……」
「私も何度も言っているのですが、春が近づいてきましたからね」
春になると変態さんが出没するみたいな感じかはわからないが、クリストフは南2号館の律さんの工房に入り浸っているのだ。律さんならばうまくあしらってくれるのだが、見習いや手伝いの女性陣はそうもいかない。
「あと2週間もすれば即位式の準備で王都ですが、それまで何もないと良いのですけど」
「私も注意はしておきますが、ダヴィデやベルトランにも言っておきましょう」
アロイスが請け負ってくれて心強い。しかし、そのクリストフと私は3週間ほど王宮で同室となるのか。本人が言った通り一応雇い主である私に手を出すようなことはさすがにないだろうが、どこぞのご令嬢を部屋に連れ込むのではないかと本気で心配だ。
「ですがバスルーム付きの部屋を提供してもらえて良かったですね」
「それについては侍従長に感謝しなければなりませんね」
私が女性であることを知る侍従長はさすがにその辺りについては考えていてくれたようだ。最悪、公衆浴場に行くしかないかなと思っていたのだが、それにしたってどこかで女性用の服に着替えることを考えると面倒だったのだ。
「王宮にはドロフェイもいます。あなたに危害を加えることはないのかもしれませんが、充分気を付けてください」
「わかっています」
ドロフェイはその後、姿を現していない。王都にいる間はエルヴェ湖に音楽を捧げることができないので、ウェルトバウムの根を一度見ておきたいのだが、前回の失態を考えると少し気が重いところもあった。
「ユリウス殿はいつ頃戻られるのですか?」
「来週になるようですね」
ユリウスからは先週手紙が届いた。2月の初めにスラウゼンからマーリッツにかけて大雪が降り、なかなか身動きが取れなかったようだ。
1月の終わりのスプルースの伐採は滞りなく行われ、今は乾燥させているところで、やることがないからクロイツェルを練習していると書かれていた。私も隙間時間はクロイツェルを練習しているが、ユリウスがそれほど練習しているなら合奏が噛み合わないかもしれないと焦っていたりする。
それでもやっぱりユリウスが帰ってくるのは嬉しいし待ち遠しい。手紙の最後に書いた日本語も早く解説したい。「だいすき」のところは恥ずかしいけど。それにユリウスはまた困った顔をするかもしれない。嬉しいけど不安。そんな感じなのだ。
「アマネさん、歌の楽譜、どこに置く?」
楽譜ライブラリーの部屋に着くとマリアが待っていた。
「こっちの棚にしよう。『側にいることは』は額に入れようよ。額縁は……」
「これかな?」
棚の最上部にあった額縁をマリアがひょいと取って渡してくる。うん、私じゃ届かないもんね。マリアってばまた大きくなっちゃって……。
「手前の大きいテーブルには新しい楽譜を置いて……」
「歌と、ピアノは、いっしょ?」
「ピアノの楽譜は数が多いから別にして、歌はヴァイオリンやオーボエと一緒にしようか」
ああでもない、こうでもないと2人で悩んでいるとアロイスが微笑んだ。
「そうしていると本当の姉妹のようですね」
「アマネさんが、妹、です」
「ち、違うよ! 私が姉で、マリアが妹だよ!」
身長は越されたけれどそれは譲れないのだ。
「そういえばマリアの衣装が出来てるって律さんが言ってたよ」
「見てくる、です!」
慈善演奏会の時に着たものは丈が短くなってしまったのだ。目を輝かせて出ていくマリアをやっぱり女の子だなと微笑ましく思う。
「アマネさんもたまには着飾ったらいかがですか? 大旦那様にいただいた衣装があるでしょう?」
「いやあ、寒いですし。元々こんな感じの格好でしたから、スカートは着慣れていないのですよ」
パパさんは娘の衣装は父親の道楽だと主張して、しょっちゅう私とマリアに洋服を買うのだ。マリアはともかく私は着る機会もないのでタンスの肥やしになっている。
「ですが王宮へは持って行かれた方がよいでしょう。何かあった時の変装にも使えますから」
「変装ですか?」
着用シーンが全く思い浮かばず首を傾げる。
「王宮は様々な者がおります。悪意を持って近付いてくる者もいるでしょう。そういった輩の目を誤魔化して逃げるために、あると便利なのではありませんか?」
宮廷楽師として王宮にいたアロイスが言うのならそうなのかもしれない。嵩張るけれどウィッグも一緒に持って行こうと頭の隅にメモをする。
「マイスターが女性の格好をしてくれるなら、僕も指揮を頑張れそうだよ」
そう言って部屋に入ってきたのはクリストフだった。
「お前は最近浮かれすぎだ」
「本当にそうですよ! クリストフはダメ大人すぎます!」
アロイスと2人でクリストフを責めるも、本人はどこ吹く風だ。
「マイスター、妬いているのかい?」
「クリストフは頭が湧いてるんじゃないですか?」
「アマネさん、やはり私が王宮に参ります。この男をあなたの側に置くなど危険すぎます」
こうして何度も行われた議論が蒸し返されたのだが、指揮はクリストフの役目だしアロイスはレッスンの責任者なのだから無理な相談だ。
「王宮では僕はあまり出歩けないからね。マイスターと2人、部屋でじっくり楽しめるね」
アロイスがいきり立つ気配を感じ、私は頭が痛くなるのだった。