荒療治
1月の後半に差し掛かった頃、私はアマリア音楽事務所の中でも元から音楽に携わっていた5人を集めた。
葬儀の演奏に参加したアロイス、クリストフ、ダヴィデ、ベルトラン、そして、元は王宮に招聘されていたエグモントの5人だ。ラウロとエドは打ち合わせの間は城の見回りに行ってもらっている。
「ふむ。演目が決まらぬと。そういうわけであるな」
「そうなのです。それで皆に相談しようと思って集まっていただいたわけです」
王都の劇場で演奏する曲が決まらないのだ。
「古典から取り掛かりたいのですよね」
アロイスに問われて私は頷く。
「そうですね。金管楽器の問題もありますので」
「となると、ハイドンかモーツァルト、ベートーヴェンあたりまでということかな」
渡り人の世界の音楽を聞き込んでいるクリストフが言う。この冬の間に音楽研究もだいぶ進んだようだ。
「俺はモーツァルトのピアノ協奏曲が良いと思いますね」
ダヴィデはモーツァルトの曲を好んでいるようだ。
「正直な話をしますと、私は演奏よりも楽譜を起こす方に時間を注ぎたいのです。春以降は練習時間があまり取れなくなりますし」
私は元々ピアニストではない。いずれはレッスンを受けている生徒の中から、よい人材を見つけて演奏を任せたいと考えていたりもする。
それにドロフェイとの賭けのこともある。期限がいつまでと決まっているわけではないし、時間がかかるとも言っていたが、ドロフェイが気まぐれを起こさないとは言えない。
もし私が賭けに負けてしまったら、もう音楽を伝えることができなくなるかもしれない。そうなる前に出来るだけたくさんの曲を伝えたいのだ。
「吾輩は交響曲が良いと思うのである」
エグモントは以前も交響曲をやらないのかと聞いていた。私としても交響曲は選択肢の一つだと考えている。
「あの…………『魔笛』はどうでしょうか?」
ここに来てからはとてもまじめに仕事をしていたベルトランが言う。クリストフはまだ少しわだかまりがあるようだったが、表に出さずにいてくれるため今日のこの打ち合わせにも呼んだのだった。
ベルトランが言う『魔笛』はモーツァルトのオペラだ。英名は『マジック・フルート』。トラヴェルソのベルトランがやりたいと思うのも当然と言えば当然だ。
「私はベルトランの案が良いと思いますね。せっかく劇場で演奏するのですから、オペラを検討してみてはいかがですか?」
アロイスがベルトランに同調した。
確かに劇場には歌手がいるし、普段上演しているのもオペラだ。『魔笛』は登場人物が20人近く必要なのでフルーテガルトで行うのは難しい。
「ふむ。そうであるな。舞台設営がここでは難しいことを考えれば、オペラを劇場に任せるというのもよいであろうな」
「そうだね。それなら年契約にも持ち込みやすいよ」
『魔笛』の舞台はそれほど凝ったものは必要ないが、それを理由に話を持ち掛ければ、毎年1度は劇場でオペラを行うという流れに持ち込みやすいとクリストフが言う。
「では『魔笛』の楽譜を起こすことにします」
ダヴィデもモーツァルトの演目だからなのか、目を輝かせていた。
「決まりであるな。だがアマネ殿、交響曲も楽譜だけは起こしておいてはいかがかな?」
エグモントはおそらくタブレットでベートーヴェンを聞いたのだろう。気持ちはよくわかる。ベートーヴェンの交響曲のあの万能感を体験してしまうと、どうしたって演奏してみたいと思うものだ。
「自信がないのかい?」
「ええ。演奏に関しては、全くありませんね」
クリストフの問いには正直に答えるしかない。この場にいる者にはベートーヴェンがどういう作曲家だったのか話してあるのだ。20代の私が指揮を務めるなどおこがましいという想いはわかってもらえると思う。
「演奏する時期は改めて考えるとして、楽譜だけでも起こしてみたらいかがですか?」
確かにエグモントやアロイスの言う通り、すぐに演奏しなければならないというわけでもない。楽譜だけ起こすならば、と私は頷いた。
「相談に乗っていただけて助かりました。ありがとうございます」
演目が決まったことで、クリストフとアロイスを残して他の者が退出する。2人にはまだ話があるので残ってもらったのだ。
私はクリストフに向き合って口を開く。
「即位式ですが、王宮に部屋を用意すると侍従長から連絡がありました」
「王宮か……ヴェッセル商会の支部では駄目なのかい?」
実は滞在先を侍従長に打診したのは私だった。ベルトランとエドから聞いた話が頭の中にちらついて、支部に滞在したくないと思ってしまったからだ。はっきり言って私の我儘だった。
「クリストフは支部に滞在しても良いですよ」
「アマネさん、貴女を一人で滞在させるわけにはまいりません。どうしてもとおっしゃるなら私も参ります」
アロイスの言葉には頷けない。その理由はこの後に話す予定だった内容も関係していた。
「アロイスには3月から再開するレッスンの方をお願いしたいのです。クリストフが不在になりますから」
「ですが王宮では護衛は別室になるはずです。侍従や侍女は王宮から用意されていますよね」
「そのようですね」
侍従長からの手紙にはその旨が記されていた。侍従長は私が女だとわかっているが、だからといって他の者の手前、特別扱いはしないだろう。
「仕方がないね。僕が滞在するよ。2人1部屋なんだろう?」
即位式なので他国からも来賓は来るし指揮者も私以外に数名いる。かなりの人数が王宮に滞在することになるのだ。クリストフが支部に滞在する場合は、私は見知らぬ誰かと相部屋になる可能性が高かった。
「それはそれで心配だ。やはり私も参ります」
「アロイス、私とクリストフが同室なのはクリストフが指揮者だからですよ。あなたが指揮をするのですか?」
即位式の音楽は何曲も演奏される。私とクリストフはエルヴィン陛下が大聖堂へ入場する時と退場する時に指揮をすることになっている。
「指揮の時だけ入れ替わればよいのです」
「ひどいな。僕だってさすがにマイスターに手は出さないよ。職を失いたくはないからね」
さすがにアロイスの案を取り入れるのは難しいだろう。それにどちらかといえばクリストフが私に手を出すよりも、女性を連れ込む方が私としては心配だったりする。
「信用してはなりません。それに最近の貴女は……その……」
「ああ、わかるよ。最近のマイスターはなんだか色気を感じさせる時があるよね」
「お前は……だから信用ならぬと言うのだ!」
この2人は一体何を言っているのだか。私は相変わらず食欲が無くてガリガリが進む一方だというのに。
「シルヴィア嬢も様子を見に来て下さるようですから心配ありませんよ。それよりもレッスンですね」
「……エグモント殿とダヴィデを組ませるのですか?」
「そうですね。アロイスはベルトランをお願いします」
3月のレッスン予約はすでにほぼ埋まっている状態だ。
「『道の駅』はまゆりさんとテオに任せて大丈夫ですが、レッスンの方はアロイスがまとめてください」
「エグモント殿では駄目なのでしょうか?」
「駄目という訳ではありませんが、エグモントさんはずっといらっしゃるわけではありませんので」
エグモントは協奏曲の演奏会後は他国に行くのだ。ダヴィデも救貧院の音楽教室があるし、入ったばかりのベルトランに頼むわけにもいかない。
「お願いします。アロイス」
「……承知しました」
渋々という風ではあったが、どうにかアロイスは頷いてくれた。
打ち合わせが終わり、クリストフが部屋を出て行ってもアロイスは立ち上がろうとしなかった。何か話があるのだろうかと首を傾げる。
「アマネさんはドロフェイに会ったのではございませんか?」
「どうして、そう思うのですか?」
内心ギクリとする私だが、表には出さずにしらばっくれてみせる。アロイスは立ち上がってソファの対面から移動して私の隣に座った。
「先ほども言いましたが、最近の貴女は様子が変わりました。貴女がそんな風に変わるとしたらユリウス殿の影響のはずですが、彼は今スラウゼンです」
スラウゼンではあと5日もすればスプルースの伐採が始まる。そんな時期にユリウスがスラウゼンを離れるはずがないとアロイスは言う。
「ユリウス殿ではないとすれば、ドロフェイの術ではないかと思ったのです」
ドロフェイが術を私にかけたのかはわからない。それに様子が変わったと言われても自覚もない。
「ドロフェイに貴女を奪われるぐらいなら、いっそ私が……」
「ちょっと待ってください。落ち着いてください」
アロイスの思い詰めた様子に慌てる。
「ですがドロフェイは一筋縄ではまいりません。貴女の初めてを簡単に奪ってしまうに違いない」
何言ってんの? 本当に何言ってんの? 初めてとか、なんで知ってるの!?
「ええと、その……ドロフェイには揶揄われただけです」
「何をされたのです? 言えないようなことではありませんよね?」
アロイスが掴みかからん勢いで聞いてくる。いや、実際にはもう両肩を捕まれていて、私はと言えば恥ずかしいやら怖いやらで涙目だ。
「どこを触れられたのです?」
触れられたとは言っていないのに、アロイスは確信しているかのように言った。
「えっと…………腕、とか…………」
勢いに押されてつい言えば、途端に二の腕を捕まれる。突然のことに驚いた私が脇を閉めてしまい、アロイスの手首がつぶしてある胸に当たって身を震わせる
「他には? どこを触れられたのですか?」
気付いていないのか、アロイスは私の二の腕を摩るように動かす。今日はたくさん着ているから感触なんてないのだけれど、羞恥で顔から火が出そうだった。
「あ、アロイス……怖いです……」
「怖がらずとも大丈夫です。他にはどこを触れられたのです?」
先ほどまでの詰まるような様子ではないものの、温度が無い声でアロイスが言う。片方の腕は相変わらず私の腕を摩っていて、もう片方の腕はいつの間にか背中に回って抱き込まれていた。
「さあ、どこを触れられたのか、おっしゃってください」
アロイスがじっと私の様子を見ているのがわかる。
「あ……足、とか…………」
お腹と言って下腹を触られるよりはマシだろうと思ってそう言えば、足のどことも言っていないのに内ももに手を入れられた。下から撫で上げるように、ゆっくりと手が上へと移動してくる。アロイスは私の様子を探るように見ている。
「もっと上も、ではありませんか?」
耳元で息を吹き込まれるように囁かれた瞬間、私の中で何かが吹っ切れた。
「……アロイス。話を……話を聞いてくれませんか?」
頭の中にある何かのスイッチが切り替わったみたいに熱が冷えて涙も引っ込んだ。
「お願いします。私の話を聞いてください」
「…………伺いましょう」
足に触れていた手が引かれ、近くなっていた体の距離も離れていく。私はほっと息をついて話し始めた。
「確かに私はアロイスの言う通り、そういった経験がありません。ですが、そのことについては特に価値を感じていないのです」
これは元の世界の風潮も関係があるのかもしれないし、自分の年齢も関係あるだろう。それに、特に守ってきたという意識がないことも大きな原因の一つだと思う。恋愛ごとを面倒だと感じていた私からすれば、守った結果ではなく、むしろ怠けた結果のように思えるのだ。
「それは…………」
アロイスはどう答えたものか迷うように視線を彷徨わせた。私は構わずに続ける。
「それとドロフェイのことですが、ゲロルトの仲間として彼はどんな役割を担っていたのでしょうか?」
これは前々から疑問に思っていたことだ。
「ドロフェイは……貴女に対するこだわりを見せてはいましたが、時折ふらっと現れてゲロルトと話をするだけで、特別何か役割があったわけではありませんでした」
『謝肉祭』を演奏した時に、ドロフェイは「誰かを危険な目に合わせたことはないのに」と言っていた。私も改めて考えてみたのだが、ドロフェイは私に何度か術をかけたけれど、危害があったかと言われると疑問なのだ。
1度目の術は道化師の存在を忘れて代わりにアルフォードが見えただけで、数時間後には解けていた。あれが何を意味しているのかわからないけれど、アルフォードが言った通り、おもしろそうだからという理由が有力ではないかと思っている。
2度目の術はフルーテガルトの火事の後だ。しばらく私は単独行動が出来なかったが、むしろ危険から遠ざけられたようなものだ。
「劇場の火事の時はクリストフの体を使って接触してきましたが、ゲロルトが勝手に動いて困っていると言っていました。あとは仲間が誰なのかを示唆しただけです。あの時は何か役割があったのでしょうか?」
「いいえ。あの場に来る予定はありませんでした。ドロフェイはゲロルトにはほどほどにしておけと言っていましたね」
ドロフェイはゲロルトが何か事を起こすつもりでいたことを、たぶん知っていたのだと思う。劇場で会った時の口ぶりもそんな印象だった。
「言われてみればドロフェイは……」
「ええ。こちらに対して何か危害を加えるつもりは、元からなかったのではないかと思うのです。私を連れ去るつもりはあるのでしょうけど……」
それも賭けの結果が出るまでは実行されないのだろう。
アロイスは何かを考えるように顎に手を当てた。
「ですが、先ほど私がしたようなことはされたのですよね?」
「うっ……そうですが…………あれは私も悪かったのです。灸を据えるために、という感じでしたから……」
さきほどのことは上手く誤魔化せたかと思ったのだが、そうは問屋が卸さないようだ。視線を逸らす私を見て、アロイスが苦笑する気配が伝わってきた。
「アマネさん、ゲロルトと共にいたカミラという女について、ユリウス殿には話したのですが、聞いていますか?」
「……カミラさんについては、ほとんど聞いていません」
内心ドキリとするが、アロイスと視線を合わせないまま私は首を横に振る。
「私はあまり接点がありませんでしたが、ゲロルトとは揉めておりました」
「それは……聞いていますが、原因は知りません」
「そうでしたか。揉めた原因はゲロルトに対してあの女が隠し事をしていたからでしたが、ユリウス殿はそれがフルーテガルトの火事だったのだろうと推測しておられました」
フルーテガルトのヴェッセル商会に火をつけ、ピアノの設計図を盗んだのはカミラの独断だったということだろうか。
「おそらくは。ユリウス殿はヴィーラント陛下の件が解決していないのにフルーテガルトで事を起こすのは下策だと。ゲロルトがそんな下手を打つはずがないと言っていました」
ということは、設計図を出版社に投げ込んだのも、ゲロルトと揉めたカミラの独断だったということかもしれない。
「あの女はユリウス殿と旧知だと伺いました」
「……そう、聞いています」
ベルトランの話が頭を過る。
「ベルトランの言っていた女とは、カミラのことでしょう」
胃がムカムカするけれど、必死に押し隠してアロイスの言葉に耳を傾ける。
ふいにアロイスが私に手を伸ばした。先ほどのように有無を言わせないような雰囲気ではなく、慎重に、あるいは躊躇うように。
ふわり、と頭が撫でられる。
「貴女はベルトランの話を聞いても取り乱さなかった。きちんと対応できていましたよ。がんばりましたね」
あやすようなアロイスの声に、じわっと込み上げるものがあった。こんな風に褒めるなんてずるい。
「きちんと泣いた方がいい。いえ、泣いてください」
その言葉と共に堪えていた物が溢れだした。