ヴァイオリン協奏曲の伴奏
『アマネミンD』の効果は絶大だ。
顔色と元気を取り戻した私は今日も元気に城へ出勤する。
今日はアロイスのヴァイオリン協奏曲の伴奏をするのだ。あの鳥肌が立つような深い音色に動揺しないか少しだけ心配だけど、自分も演奏するのだからきっと大丈夫だ。
「マイスター、タブレットを貸してほしいのだけど」
「もちろん構いませんよ」
事務所に着くとクリストフに声を掛けられた。クリストフは冬の間は渡り人の世界の音楽研究をしている。まずは演奏形式による分類をしたいということで、時々タブレットを借りにきているのだ。
忌々しい動画のことなど忘れたい私は、タブレットをクリストフに押し付けた。
「好きなだけ使ってください。なんなら数日持っていてもらっても構いませんよ」
「壊しても責任は取れないからね。後で返しに来るよ」
肩を竦めて言うクリストフに内心舌打ちする。残念。作戦失敗だ。
以前アロイスも壊れても直せないと言っていたが、30代組はその辺りが慎重であるようだ。
「オーボエの練習はどうですか?」
「ピアノ協奏曲もだけど、ヴァイオリン協奏曲もね、正直に言うと自信がないよ」
「クリストフが弱気なんて珍しいですね。会場のご令嬢を甘い旋律で虜にしてみせますくらい言うかと思ってました」
シューマンのピアノ協奏曲は冒頭にオーボエの見せ場があるのだ。本当に切なくて甘いメロディーなので頑張ってほしい。そして、ヴァイオリン協奏曲にもオーボエ協奏曲かなと思う程の見せ場がある。
「後で聞いてくれるかい?」
「もちろんです。午後でもいいですか?」
「構わないよ。エグモント殿も楽譜を見てほしいみたいだから、終わってからでいいよ」
そういえばエグモントはピアノの練習曲を作ってくれているのだ。先月も2冊出版しているのだが、もう次の本が出せるほどになっているらしい。私も一通り目を通して演奏もしてみなければならないので、自分の練習は後回しにしなければならない。
「今日はヴァイオリン協奏曲の伴奏をするんだろう?」
「そうですね。私も楽しみなんです」
「アロイスは先ほどレッスン室に入ったよ。でもマイスターはちょっと働きすぎなんじゃないかい?」
そんなことはない。それに春までにやりたいことは山ほどあるのだから、ぼんやりしていられないのだ。
レッスン室に向かうとアロイスはすでに調弦を終えていた。
「まず全体を通しましょうか」
「お願いします」
アロイスが演奏するヴァイオリン協奏曲は、とても情熱的かつ繊細な旋律で音楽の美を存分に味わえる曲だ。
1度通すと思わずため息が出た。
「どうかされましたか?」
「いえ、本当にこの曲は美しいなと思いまして。指揮などしないで客席で聞きたいくらいです」
いや本当に。作曲者の几帳面さがよく表れているのに、どこか艶を感じさせる美麗な曲なのだ。
「この10度の重音の部分なのですが……」
「ここ、難しいですよね。でも上手く弾けていると思います。ただ、こういう風にすると自然に…………どうかしましたか?」
弦の押え方のコツを教えようとアロイスの指に触れると、アロイスは肩をわずかに震わせた。
「……いえ、すみません」
どこかきまりが悪そうに、澄んだ青色の目を伏せてアロイスが言う。
「貴女といると私はまるで少年のようになってしまう。知略を巡らせて策を弄しても、ほんのわずかな隙で崩れてしまう。この年になっておかしいでしょう?」
「そんなことは……」
どう返していいのかわからない。それに、そんなことを言われてしまうと、私まで必要以上に意識してしまう。なんだこれ。気まずいし落ち着かない。
目だけでラウロを探すと、ソファでスタンプづくりに励んでいるのが見えた。
「…………続けましょうか」
もう一度、第一楽章から演奏してみるが、今度はなんだか集中できない。動揺が動揺を呼び、指先が震えてミスタッチが増える。
「ごめんなさい……」
「いえ。余計なことを言ってしまいましたね。少し早いですが、切り上げて湖に参りましょうか」
アロイスのせいではない。私が未熟なだけだ。ダメだな、私。
「ラウロ、すみません。ちょっと早いのですがエルヴェ湖に行きます」
「片付けてから行く。先にエドと行ってくれ。事務所にいるはずだ」
予定よりも早かったため、ラウロはまだ片付けていなかった。こちらの都合で振り回してしまって、なんだか申し訳ない。
「すみません。私のせいですね」
「アロイスのせいではありません。私こそ、すみません」
お互いに困り切った表情で謝りながら事務所に向かうと、何故かエドはいなかった。
「まゆりさん、エドはどこに?」
「見回りに行くって言ってたわよ。ごめんなさい。今、手が離せないの」
厨房にいるまゆりさんに声を掛けると、昼食用のスープを作っているようだった。どうしたものかと思ったが、戻るのもラウロを急かすようで申し訳ない。
「後からラウロも来るでしょうから、先に行きましょう」
2人で待っているのも気詰まりだったので、アロイスの提案に頷いて外に出る。雪は降っていないし、今日は少し寒さが緩んでいるようで、思ったよりも寒くなかった。
「滑りそうですね。気を付けてください」
城門を抜けると東門までは下り坂だ。ぱっと見た感じはそうでもないが、踏み固められた雪が少し解けて滑りやすくなっているらしい。
「わわっ、ひゃあぁ」
言われたそばからすっ転びそうになって、アロイスに肘を捕まれた。危ない危ない。下まで滑り落ちるところだった。
「アロイスはどうして滑らないのですか?」
「歩き方が違うのではないでしょうか? 私は北の方の生まれですから。雪が多い所でしたので、自分ではよくわかりませんが慣れているのでしょう」
ならばきっと同郷のカスパルも滑らないのだろう。しかし、南に位置するヴァノーネ出身のダヴィデは雪に苦労しているのではないだろうか。
「朝はクリストフが転んでましたよ」
「ふふふっ、いつもかっこつけてるのに。見たかったです」
「ダヴィデはおかしな歩き方になってましたね」
「ふふっ、ははは! ですよね! ダヴィデはヴァノーネ出身ですものね。うわあっ!」
つるつる滑りながら坂を下っていると、肘では腕を痛めてしまうとアロイスが背後から両方の二の腕を掴んで支えてくれた。
さきほどまでの気まずい雰囲気がなくなって安心する。
坂道を下ってエルヴェ湖畔までの小道も、東門の兵士たちと一緒に除雪してくれたらしく、私は半ば抱えられたままいつもの歌う場所まで連れてきてもらった。
「湖に落ちたら大変ですから」
そう言ってアロイスはそのまま歌うように促した。
歌はいつも通り『側にいることは』だ。フルーテガルトに流行らせよう計画は遂行中なのだ。
愛する人の側にいることは
最も素晴らしい愛の喜び
恋焦がれる人から離れていることは
最も悲しい愛の苦しみ
いつものように青い世界が頭に思い浮かぶ。美しくて静かな世界。あの場所にあるウェルトバウムの根にあった傷はどうなっただろうか。
湖面にさあっとさざ波が立つのを眺めていると、肩に僅かな重みと温もりを感じた。
「すみません。しばらく振り返らないでもらえますか」
哀しい懇願の響きを感じて、私は無言で佇み、さざ波が消えても湖を眺め続けていた。
◆
「ラウロはどうして滑らないのですか?」
ラウロが湖の到着したのはしばらくしてからだった。エドが見回りから戻って来て、護衛が付いていないことに気付いて慌てて下りてきたようだ。
私は例によって坂道で滑りまくってうまく上れず、ラウロに背を押されている。
「ルブロイスも雪が降る」
「南なのに?」
「ルブロイスは標高が高い」
ルブロイスはヤンクールとヴァノーネに隣接したノイマールグントの大領地だ。南西にあるので暖かいのかと思ったら、夏でも溶けない雪山があるらしい。
「もしかして、湯治場があったりします?」
「知ってるのか?」
「ユリウスに聞いたことがあります。ノイマールグントの南西にあるって」
そんな話をしながら坂を上る私たちの前には、アロイスとエドが歩いている。
エルヴェ湖で音楽を捧げた後、アロイスはしばらくしてから顔を上げて、何事もなかったかのように戻りましょうと言った。私は何が言えるわけでもなく、ただ頷くだけだった。
事務所に戻るとエグモントが待っていた。
「おお、アマネ殿、外は寒くはなかったか? いや今日は少し気温が高かったのであったな。しかしながら湖の畔は寒かろう。そうであったそうであった。吾輩はアマネ殿にピアノの教本を確認してもらおうと待ちかねておったのだ。今回は中級向けを2冊分考えてみたのだが……」
「えーと、レッスン室に行きましょうか。弾いてみたいですし」
エルヴェ湖に行ったのは昼前だったのだが、随分と時間が経っていたようで、すでに昼食の時間が終わって午後の仕事の時間になろうとしていた。
昼ご飯のスープを食べ損ねたが、食欲はないのだから丁度いい。幸いラウロも気付いていないようだ。
レッスン室にはエドが付いてきてスタンプを掘り始めた。私はエグモントの楽譜を1曲ずつ初見で演奏してみる。1冊あたり20曲で全40曲。意外なことにエグモントは口を挟まずに私の演奏を見ていた。
「素晴らしいです。それぞれテーマがあって、順序立てて学べる作りになってますね」
「アマネ殿はテンポが正確であるな」
「それがわかるということは、エグモントさんも正確だということですね」
いつもの長口上が無くて安心する。
「吾輩はピアノ協奏曲の指揮をするのでアマネ殿の演奏を一度聞いておきたいと思っておるのだが」
「すみません。まだ完成には程遠いのです」
「であろうな。アマネ殿は少し忙しすぎると吾輩は思うのだ」
忙しいというか、たぶん昼にエルヴェ湖に音楽を捧げているからだろう。それに付き合うアロイスの完成度を考えると、確かに遅れてはいるのだが、通勤している以上は練習時間の確保が難しいのだ。
「そのうち泊まり込んで練習するかもしれません。夜にうるさくして申し訳ないのですが」
「気にされることはない。北館にはそれほど響いてこないのだ」
それは知らなかった。今度、誰かが練習している時に北館に行って確認してみようと頭にメモしておく。
「ところで先ほどクリストフがあの板で渡り人の世界の音楽を聞いておったのだが、アマネ殿は交響曲はやらないのかね?」
「やりたいですけど手が回らないんですよね。あと金管楽器も半音階が出せませんから難しいですね」
どうしても金管楽器の改良で行き詰ってしまう。だが春になったらマルコがアールダムに行くというので、そこで何らかの改善がなされればいいなと期待しているところだ。人任せとも言う。
「ふむ。アールダムならば産業が進んでおるから、金管楽器の改良も期待できそうであるな」
そう頷きながらエグモントは帰って行った。
入れ違いにクリストフがオーボエを片手に入室してきた。今朝、言っていたピアノ協奏曲のことだろう。
「この部分って後からピアノが繰り返すだろう? マイスターの演奏と大きな違いが出ないようにしたいんだ」
「うーん、結構さらっと演奏してもらってもいいんですけど」
まずは聞いてみようということになってクリストフに演奏してもらう。
「この音、もう少し柔らかくしましょうか。最初のピアノの和音が鋭いでしょう? 素朴な感じながらも、この音は柔らかくしたいです」
「こんな感じかな?」
クリストフがすぐさま修正して吹く。あれ? クリストフってこんなに上手かったっけ?
「クリストフ、上達してません?」
「マイスターたちが帰った後に練習しているからね」
「なんかずるいです!」
きっとクリストフは女性とごちゃごちゃしていない時の方がいい演奏になるのだ。そうに違いない。
でもこれだけ吹けるならオーボエ用の楽譜を起こしたい。何がいいかな? シューマンの『3つのロマンス』とか、サン=サーンスとか、プーランクもいいな。
「あとは渡り人の音楽を随分たくさん聴いたからじゃないかな」
「ああ、それはあるかもしれませんね」
よい音楽をたくさん聴くのは良いことだ。様々な表現方法を知ることで、自分の演奏にも工夫ができるようになる。
「第一楽章の後半も合わせてもらっていいかい?」
「もちろん」
その後、ピアノと合わせて少し練習をしたり、ヴァイオリン協奏曲のソロを聞かせてもらったりしているうちに、事務所の営業終了時間になってしまった。
残って練習したかったが、昼食を取っていないことをラウロに指摘されてしまった。
『アマネミンD』の力もそろそろ尽きそうだったので、その日は仕方なく帰宅したのだった。