エルヴェ湖のさざ波
レイモンがエルヴェ湖での実験に付き合ってくれることになった日の朝、私はアロイスに声を掛けられた。
「協奏曲の伴奏ですか。出来なくはないですよ」
「貴女に負担をかけるのは申し訳ないのですが、お願いできると助かります」
アロイスの話はヴァイオリン協奏曲の練習で私にピアノ伴奏を頼みたいというものだった。協奏曲をピアノ伴奏で練習するのは珍しいことではない。留学時代は私も友人に頼まれて何度かやったことがある。
「年が明けてからで良いですか? 何度か復習しておきたいので」
「問題ありません。……もう数日で新しい年になるのですね」
12月もあと3日で終わる。日本のように大みそかにベートーヴェンの第九を演奏する習慣はない。ベートーヴェンがいないのだから当たり前だが、なんだか寂しいなと思ってしまう。
「この街に来てから、いえ、貴女に会ってからは時間が飛ぶように過ぎました」
アロイスがお道化たように肩を竦めて言った。
私がアロイスと初めて会ったのは、バロック・オペラを見に行った時だ。その頃のアロイスはまだライナーだった。
あれから既に半年を過ぎた。ゲロルトに攫われたり、ヴィルヘルミーネ王女の慈善演奏会に出たり、陛下の葬儀もあって王都にいた頃は本当に目まぐるしかった。
フルーテガルトに来てからも、アマリア音楽事務所を作ってレッスンを開始して、そうして道の駅にまで手を伸ばそうとしている。ゆっくりする時間はあまりなかったなと思い返す。
「年末年始は少し長めにお休みしますから、アロイスもゆっくりできますよ」
「そうですね。ですが貴女は練習に来るおつもりでしょう?」
まあそうなんだけど。ピアノは工房にもあるけれど、周りのみんなが休んでいる時にガンガン練習するのは気が引けるのだ。城なら周りに住んでいるのは北館の住人達だけだし、彼らならピアノの音をそれほど苦にしないだろう。今だって夜も練習しているのだし。
「エルヴェ湖で…………歌っていらっしゃるでしょう?」
「知っていたのですか」
アロイスは言い難そうだったが、私は用意していたお道化た表情を作る。いずれ知られるだろうなと思っていた。みんなに手伝わせているのだし、いちいち口止めもしていない。それに南1号館のレッスン室から、ちょうど私が奉納している場所が見えるとクリストフが言っていたことがある。
「私にも手伝わせていただけませんか?」
アロイスは穏やかに笑っていたが、声音は懇願するような響きが混ざっていた。
今日はレイモンが来て手伝ってくれることになっていたが、正直な話をすると私は諦めかけていた。魔力持ちなんてそう簡単に見つかるものではない。
実を言うとハンナやヘレナ、そして門兵から話を聞いた街の人々も、手伝いたいと申し出てくれていた。しかし雪が降り始めた今、冷え込む中で可能性が低い手伝いをさせるのは申し訳なかった。
賭けに負ければ私はドロフェイに連れて行かれるらしいけれど、今の私はそれをあまり忌避していない。私には何故かドロフェイは酷いことをしないという確信があった。
ドロフェイは世界が壊れ続けていると言った。それを防ぐ役割があるとも、私を連れて行くのもそのためだとも言った。
積極的にドロフェイを助けようとまでは思わないけれど、自分の命が人知れずそういう使われ方をするのも悪くないんじゃないかなと、私は思い始めていた。
「貴女のためではなく、私がそうしたいのです」
私に手伝ってもらうつもりがないことを察したのか、アロイスは更に言い募った。
「アロイス、手伝ってもらったとしても、私は何も返せません」
「それは他の者も同じでしょう?」
確かにその通りだけれど、アロイスの気持ちを利用するみたいで嫌なのだ。
「私も他の者たちと同じです。見返りを期待していると思われるのは心外です」
アロイスのこういう言い方ってすごく困る。そう言われてしまっては断りにくいではないか。
「手伝わせてみたらどうだ?」
ため息を吐きながらラウロが珍しく口を挟んできた。
ラウロは私がやり始めたことについて特に何か言うわけではなかったし、ドロフェイとの賭けのことは言っていない。
だが、ラウロは一番最初にエルヴェ湖に音楽を捧げた時にもいたのだ。あの時と今やっていることとの違いは彼にもわかるらしい。
それを踏まえて考えてみると、ラウロが一番の被害者かもしれない。いつでも付き合わせてしまっているというのに何の成果もないのだから。
「…………アロイスさえ良ければ。お手伝いをお願いします」
ため息が出そうになったが、どうにか飲み込んで言った。
◆
エルヴェ湖の畔には、どういうわけだかヘレナや宿屋の女主人や護衛たちもいた。
「レイモンさんが手伝うって言うから着いて来たのよ。私たちも手伝うわよ」
ヘレナが笑顔で言った。寒いのになんだか申し訳ないが、せっかく来てもらったのだしと思い直す。
レイモンはアロイスを見て少しだけ眉を動かしたが、何事もなかったかのように話しかけていた。
「お前も手伝うのか?」
「ええ。ラウロの口添えで、許可をいただけましたので」
「ふーん。まあ、俺は応援しねえけど、決めたんならやってみりゃいい」
アロイスはクリストフやカスパルにはぞんざいな口調の時もあるし、一人称も「俺」に代わるのだが、レイモンに対しては違うらしい。こういうところが警戒心が強いとレイモンが称する所以なのかもしれない。
寒いだろうからと女性から順番に手を握ってもらって歌う。
「へえ。門兵たちが歌ってるのを聞いた時も思ったけど、いい歌じゃあないか」
順番に歌っていくと、宿屋の女将が感心したように言った。
「うちの宿屋でも誰かに歌わせようかね」
「女将さんが歌えばいいじゃねえですか」
「そうっすよ。俺らじゃ無理っす」
護衛たちが勘弁してくれと言わんばかりに言い募る。その護衛たちにも手伝ってもらって歌を捧げるが、エルヴェ湖には全く変化はない。
宿屋の女主人は歌い終わるたびに話しかけてくる。なかなか話し好きであるようだ。
「ビアンカにでも歌わそうかね。冬は暇してるし、歌を覚えさすにはちょうどいい」
「良かったらうちで教えますよ? 時々、差し入れをいただいてますし、冬の間の週1回くらいならお代もいりませんよ」
宿屋の女主人にはりんごをもらったことがあるが、それ以外にもジャムやピクルスなどを差し入れてもらったことがあるのだ。
「そうかい? 何人かまとめて見てもらえると助かるんだけど」
「一緒に来ていただけるなら大丈夫ですよ」
そう言うと女主人は上機嫌で護衛たちと共に帰って行った。
「ずるいわよ、アマネ! 私だって教えてほしいのに」
「ヘレナも? 全然構わないけど? 律さんの仕事を手伝ってくれるお友だちも一緒に連れて来たらいいよ」
「本当? じゃあ行く日が決まったらラースに言うわね」
ヘレナも上機嫌で駆けて行く。きっとこれから友人たちに伝えにいくのだろう。
フルーテガルトに『側にいることは』が流行ったら面白いなと思って言ったのだが、ラウロやアロイスを見れば不満気だった。
「見知らぬ者を城に入れるのは良くない」
「他の者も来たがったら、収集が付かなくなってしまうのではありませんか?」
言っていることはわかるのだが、私としてはフルーテガルトのみんなが音楽を楽しんでくれたら嬉しいし、城にも気軽に来てほしいのだ。それに前々から考えていたこともある。
「本当は子どもたちに楽器を触ってほしいのです。小さいうちに才能を発掘できれば、フルーテガルトから将来すごい演奏家が出るかもしれないでしょう?」
「そういうことなら俺んとこに来てるやつらも見てもらっていいか?」
レイモンが話に乗ってくれた。私設塾では初等教育が終わった子どもたちへの授業が午前中行われるのだが、午後はさらに勉強したい者のために開放されている。冬の間はその子どもたちの弟妹も遊びに来て勉強の邪魔をしているらしい。
「週に1回くらいなら構いませんよ。でも城までは誰か大人を1人付けてくださいね」
「ま、俺が連れて行くしかねえけど。仕方ねえか」
話し終わってレイモンの手を取る。レイモンの手は大きくて暖かい。ちょっとゴツゴツしていてラースに似てるなとしげしげと眺めていたら、レイモンに不審がられてしまった。
残念ながらレイモンでもエルヴェ湖にはやはり変化がなかった。
「アロイス、お願いします」
「承知しました」
アロイスの手を取ると、レイモンが少しだけ目を細めたのが視界の端に写った。
不思議なことにアロイスの手を握ると湖の底の光景が頭に浮かんだ。一面の青い世界。ゴツゴツした岩の隙間から、ウェルトバウムの根がにょきにょきのびているあの場所だ。
目を瞑って歌うと、ウェルトバウムの根の間に小さな泡がぷつぷつと吸い込まれていくような気がする。
これが水の加護なのだろうか?
歌い終わって目を開けると、それまで微動だにしなかった湖面にさあっとさざ波が立った。ユリウスに手を握ってもらった時と同じように、周りの木々や草は音もなく静かだ。
隣を見上げると、アロイスが瞠目していた。
「……成功ですね」
「貴女が歌っている時、青い世界が思い浮かびました」
私の言葉が耳に入っていないのか、アロイスが熱に浮かされたように言う。
青い世界。私の頭の中に浮かんだ湖の底と同じなのだろうか? ユリウスはそんなことは言っていなかったけれど、あの時の私はまだあの場所を知らなかった。
「木が……岩から、あれは根でしょうか?」
「ウェルトバウムの根らしいですよ? ドロフェイが教えてくれました」
アロイスが目を見張ったまま私を見る。
そうしているうちに、早く帰れと急き立てるように雪が降ってきた。エルヴェ湖のさざ波はすでに消えた後だった。




