エルヴェ湖探検
南1号館の2階にある自分の書斎に入ると、執務用の机の上にタブレットが置かれていた。
そういえば、昨日はアロイスが倒れてバタバタしたおかげで、帰りに回収するのを忘れていたのだった。
部屋の暖炉には火を入れていなかったが、今日は晴れているせいか気温もそれほど低くはない。それに下の事務室の暖炉に火が入っているおかげで室温はそれほど低くはなかった。
充電は大丈夫だろうかと電源を入れてみる。タブレットは室温が低い場所で使用すると、内部に結露が発生する場合があるので、冬の取り扱いには注意が必要だ。
その話を兄から聞いた時、私はまるで楽器みたいだと思ったものだ。
木管楽器やヴァイオリンなどの木製の楽器は急激な温度の変化に弱いのだ。寒い冬に外から室内に持ち込んですぐにケースを開けると割れることがある。
木管楽器のように暖かい息を吹き込むものは特に注意が必要で、室温に慣らしてから更に手のひらで握って温めたりする。
クリストフはこの辺りにとてもうるさくて、まるで女性を扱うかのようにオーボエを扱うのが見ていて面白い。ダメ大人でもちゃんと音楽や楽器に愛情があるのだなと微笑ましくもあった。
タブレットの充電はまだ70%を切っていないようだ。携帯端末はその仕組み上、完全に電源を落としておかないと充電が減っていく。この世界にはインターネットなどないというのにアクセスポイントを探しているのだ。たぶん設定をいじれば解決するのだろうけれど、下手に触っておかしくなったら困るのでそのまま電源を落とした。
執務机に向かってネタ帳を開く。アロイスから聞いた話を書いておくためだ。ユリウスへの手紙に書いた方が良いのだろうが、話して良いものか少し悩んでいるのだ。
ユリウスならば他に漏らしたりはしないだろうけれど、この世界の手紙の安全性はいかほどのものなのか判断ができない。直接話すとすれば春まで待たなければならない。
アロイスの水の加護は北館に居を移してから自覚したということだった。それまでは自分に加護があることを知らなかったようだが、これはどういうことなのだろうか。エルヴェシュタイン城に何か原因となるものがあるのだろうか。
それから、全身が冷たくなるとも言っていた。ゲロルトは体の内側に熱を持つとも言っていたから、これはユリウスにも確認したいところだ。ユリウスの手や息が冷たくなったと感じたことはなかったけれど、内側だったらわからない。
覚えている限りを書いてネタ帳を閉じると、自然とため息が零れた。
「大丈夫か?」
「少し疲れただけです」
入り口の椅子に座っていたラウロが気遣うように声を掛けてくる。
「何か揉めていただろう?」
アロイスの部屋を出た時、扉の横にラウロが立っていた。耳の良いラウロのことだから、多少の話は聞こえてしまったかもしれない。特に手を捕まれた時は少しだけ声が大きくなったと思う。
「問題ありません。でもちょっと息抜きしましょうか」
そう言って私は立ち上がる。
最近は分厚い雲が空にかかる毎日だったが、今日は珍しく晴れているのだ。昼が短い冬の陽の光は貴重だ。せっかくなのでエルヴェ湖に音楽を捧げに行こうとラウロに告げ、部屋を後にした。
◆
道化師が姿を現したのは、『側にいることは』をエルヴェ湖に捧げ終わった時だった。
「こんにちは。いい天気だ、ね」
「そうだね。あなたは今日も暇つぶし?」
前回の問答のせいだろうか。意外と普通に話せて自分でも驚く。
「フフフ、キミの歌を聞きに来たのさ」
「ふうん。ねえ、どうやって立ってるの?」
道化師は湖の上に立っていた。地面ではなく水の上に浮かんでいる。
「秘密。でも、そうだ。キミも一緒に散歩しないかい?」
「どうやって?」
「足を踏み出してごらん?」
うーん、それはだいぶ怖い。晴れているとはいえ今は冬だ。湖に落ちでもしたら凍え死ぬ。
「心配しなくても大丈夫。落ちないよ」
湖を前に悩む私を見て、道化師はくすりと笑った。
前に劇場で見た嘲笑うようなものではない。今の笑い方は支部で『謝肉祭』を演奏した後、私が黒い液体を飲んだ時に見せた笑みを彷彿させる毒のない笑みに見えた。
私が足を踏み出した理由に、湖に立つなんてファンタジーっぽいことがしてみたいという興味本位なものがなかったとは言えない。だが何よりも今の道化師は嘘はつかないだろうという根拠のない信頼のようなものがあったのは確かだった。
足元には水。だけど固くも柔らかくもない。普通に城の坂道や街の中に立っている感覚で、私は湖の上に立っていた。
「うわー、なんか思ったより普通!」
「フフフ、こちらへおいで」
「まっすぐ歩けばいいの?」
「そう。転ぶと落ちるから気を付けて、ね」
道化師の言葉にちょっと怯む。普通に歩けば転びはしないだろうとわかっていても、そう言われると転んでしまうのではないかとおっかなびっくりな歩き方になってしまう。
恐る恐る前へ進む。エルヴェ湖の水面は穏やかで透き通っていて、湖の中には生き物の姿は見えない。まるで青いじゅうたんの上を歩いているみたいだ。
「この湖はすごく冷たいのさ。夏でも水温が上がらない。だから生き物はいないよ」
私の心を読んだかのように道化師が言う。
「どうして夏でも水温が上がらないの?」
「さあ、どうしてだろう、ね?」
はぐらかすように笑って、道化師は近くまで歩いてきた私の手を引いた。
「わっ、ちょっと! 急に引っ張ったら転んじゃう!」
「フフフ、大丈夫さ。ちゃんと支えてあげるから」
そう言う道化師は、いつもとはまるで違う様子でなんだか楽しそうだ。
「どこに行くの?」
「さて、どこだろう?」
湖の中央に向かって腕を引かれる。振りほどこうと思えば出来なくはなかったが、道化師は楽しそうだし私もなんだかファンタジーの世界に入り込んだみたいで楽しくなった。
「キミはウルリーケの真似をしているようだ、ね」
「ウルリーケって?」
「ずうっと昔、この湖の畔に住んでいた娘さ」
「ふうん。その人の真似を私がしてるの?」
「質問したのは僕の方だったけど?」
「だって心当たりがないもの」
会話しながら湖の中心へと歩を進める。足下の湖面が鏡みたいになって空を映しているのが面白い。
「クランプスから聞いていないのかい?」
「クランプスってアルフォードも言ってたけど、結局誰なのかわからないんだよね」
「まあ、説明してもキミがやることは変わらないのだろうけれど、僕にとっては不都合なのさ」
「私がウルリーケっていう人の真似をすると、あなたが困るってこと?」
道化師は答えずに私をちらっと見た。
「キミは暢気すぎるよ。僕が気まぐれを起こしたら、キミは湖の中に落ちるのだけれど」
「え、やだ! そんなことしないよね?」
「どうしようかな」
意地悪を言う道化師の腕に私は慌ててしがみ付く。最初にいた湖畔は現在地から50メートルくらいはありそうだ。こんなところで湖に落ちたら、岸にたどり着く前に凍える未来しか見えない。
「フフフ、相変わらずキミの顔はおもしろい」
道化師は慌てふためく私を見て楽しそうに笑うが、私はそれどころではない。今この瞬間、道化師が気まぐれを起こしたら死んでしまう。着いて来たのは迂闊だったかもしれないと思い始めた頃、道化師がぽつりと言った。
「キミをただ連れて行くのはつまらないな」
「え?」
「僕にとっては不都合だけど。そうだな、キミと賭けをしようか」
道化師が楽し気に言った瞬間、とぷん、と水の中に落ちた。
「うそ!?」
驚いてもがき出ようとするが身動きが取れない。
「暴れたら本当に死んでしまうよ」
背後から道化師の声が聞こえて慌てて振り返る。いつの間にか道化師が私の腹に手を回して背後に立っていた。
「ななななにっ? なんでくっついてるのっ!?」
「こうしないとキミが溺れるからだけれど、手を離した方がいいのかい?」
「やだ! だめ! 絶対離しちゃダメ!!」
「キミが大人しくしてくれたら離さないよ。ほうら、息もできているだろう?」
道化師に言われて初めて気が付く。水の中だというのに全然苦しくない。服や髪は水に漂うようにふわふわと頼りない動きを見せるが、冷たいとか濡れているという感覚もない。
「周りを見てごらん」
促されて周りを見る。コクリと喉が鳴るのがわかった。
「なんで……こんなにきれいなの?」
「言っただろう? 生き物がいないって。だからここの水は澄んでいるのさ」
一面の青い世界だ。湖の中は想像以上に明るくて、上を見れば太陽がゆらゆらして光が水の中にカーテンを作っている。下はゴツゴツとした大きな岩が所狭しと敷き詰められているのがはっきりと見えた。
「どこに行くの?」
「湖の底さ」
あのゴツゴツの岩のところだろうか? そう考えていると、体が背後の道化師に押されるようにふわりと動き出した。不思議なことに道化師は手足を動かしておらず、泳いで移動しているわけではなかった。
「あ……あの音……」
遠くの鐘のような、人の歌声のようなあの音だ。どういうわけだか、いつもよりはっきりと聞こえる。けれど少しだけ違和感を感じた。なんだろう? ほんのちょっとだけ調律が狂っているような、そんな気がする。
「ここは繋がっているから、ね。ほら、そこに見えるだろう?」
道化師が指し示す方向を見れば、大きな太い木の根のようなものが、岩の間からにょきにょきと飛び出しているのが見えた。近づいてみれば、表面はつるんと滑らかで、けれど所々に抉られたような傷がある。
「ふれてごらん」
道化師に促されて木の根を触ってみる。
するとあの音が体の中に大きく響いてきた。
「ウェルトバウム……?」
自然とその名前が口から出た。デニスから聞いた神話に出てくる大きな木。枝を震わせてムズィーク・ムンダルナを響かせるというあの木の名前。
「そう。これはウェルトバウムの根だ」
「じゃあ、ここってもしかして生き物の国の泉?」
「いいや。それは別な場所にある。ここは偶然できた通路なのさ」
「通路? どこに繋がってるの?」
「ハーベルミューラ」
聞いたことがない。アルフォードが眠ると言っていた場所に似ているけれど、あれは確かスヴァルミューラと言っていた。
「キミはエルヴェ湖に音楽を捧げているだろう? ウルリーケも似たようなことをしていたけれど、正確に言うとエルヴェ湖ではないのさ」
「エルヴェ湖じゃないって……じゃあどこに、何に音楽を捧げたらいいの?」
「この根の隙間からハーベルミューラの泉に捧げるのさ」
私は目を瞬く。それって具体的にはエルヴェ湖に捧げるのとはどう違うのだろうか?
「エルヴェ湖に捧げればそこに届くけれど、質の問題さ」
質と言われて顔に朱が走った。私の音楽の質が低いということだろう。俯く私を見て道化師が苦笑する気配がした。
「勘違いしないでくれるかい? キミがダメだということではないよ。水の加護が必要なだけさ。今もないわけではないけれど、足りないのさ」
「水の加護? 水の魔力っていうこと?」
「キミ、一番最初はどうやって捧げたんだい? あれは僅かだけれどハーベルミューラに届いていたよ」
最初にエルヴェ湖で歌った時はユリウスと一緒だった。手を握ってくれていた。
「フフフ、そういうことさ」
「じゃあ楽器は難しいかな? 歌だけってこと?」
「方法がないわけではないけれど」
そう言って道化師は私を見て意味深に笑った。
「なに? なんなの?」
なんとなくカチンときて眉間に力が入る。
「いや、なんでもないよ。ああ、言っておくけれど、ハーベルミューラに捧げる歌は『ジーグルーンの歌』ではないよ」
話を逸らされたのはわかったけれど、『ジーグルーンの歌』についても聞いておきたい。
「結局『ジーグルーンの歌』って何なの? いつどこで歌うのか全然わからないよ」
「さあね。聞いてみたいとは言ったけれど、僕の役割ではないから、ね」
「そうなの?」
この答えには私も戸惑ってしまう。わからないながらも、道化師は『ジーグルーンの歌』を歌わせるために私を連れて行くのだと思っていた。
「さて、おしゃべりはこのぐらいにして、賭けの内容を説明しようか」
そういえば賭けって言ってたっけ。そのために道化師は私をここに連れて来たはずだ。
「どうすれば私の勝ちになる?」
「ハーベルミューラの泉が浄化されたらキミの勝ちさ」
道化師によるとエルヴェ湖にもハーベルミューラの泉にも、わずかに毒が含まれているらしく、音楽を捧げることでそれが浄化されるのだという。
「どうやって確認するの? ここの水を飲んでみるとか?」
「死にたいのかい?」
「えっ、そんなにひどい毒なの?」
この場にいて平気なのだろうかと心配になるが、全く気にする様子も見せずに道化師がが言う。
「この木の根、傷があるだろう? これが治ったら浄化されたってことさ。ああ心配することはないよ。またここに連れて来てあげるし、僕が傷をつけることもない。ただ、ハーベルミューラの住人が傷をつけることはあるかもしれない、ね」
目の前の木を見つめると大きな傷が3か所あった。
「私が勝ったらどうなるの? 何かもらえるの?」
「キミが勝ったら僕はお払い箱さ。もうキミの前には現れないよ」
「私が負けたら?」
「フフフ、決まっているだろう? キミを連れて行くよ」
ウェルトバウムを触ってあの音を聞く。目を閉じて耳を澄ませる。少しだけ調律がずれているのはこの傷のせいなのだろうか。
「賭けを拒否したらどうなる?」
「今まで通りさ。僕はいずれキミを連れて行くし、世界は壊れ続ける」
「は……? 世界……? 壊れるってどういうこと?」
そんな話は聞いたことがない。私を連れて行かなければ世界が壊れていく? 訳が分からない。
「気にすることはないさ。世界が時間と共に壊れていくのは道理だ。キミが元いた世界は違ったのかい?」
「……違わないような気がするけど……あなたはそれを防ぐのが目的?」
道化師の目的を聞いた時、そういえば世界平和と言っていた。私ははぐらかされたと思って怒ったけれど、あながち嘘ではないのかもしれない。
「フフフ、似合わないだろう? けれど人の立場から見たら、僕が勇者でも救世主でもないのは確かさ。だから御伽噺は意図的に捻じ曲げられる」
「御伽噺……ジーグルーンの神話のこと?」
デニスとナディヤから聞いた話を思い返す。道化師なんて出てきた記憶はない。悪者らしい存在といえば、水の神が倒した竜くらいだろうか。ムズィーク・ムンダルナが大嫌いで、ウェルトバウムを枯らすために毎日根を齧っていたと記憶している。
そういえばあの物語の水の神は竜が住む泉を飲んで息絶えた。泉には毒があったはずだ。その話がもし本当なのだとしたら、道化師が言うハーベルミューラの泉は竜が住んでいる泉のことなのかもしれない。
毒が含まれたハーベルミューラの泉で竜がウェルトバウムの根を齧っている。そんな光景がぼんやりと頭に浮かぶ。毒を含んだ水を吸ったウェルトバウムはいずれ枯れてしまうだろう。
「どうする? 賭けは止めるのかい?」
「…………やるよ。でも、」
私は賭けに乗ることにした。気になったのはあの音だ。わずかに調律が狂ったあの音。
ハーベルミューラの泉を浄化できれば、ウェルトバウムも綺麗な水を吸い上げて、きちんと調律された音になるのではないだろうか。
「私が勝った時の条件を変えてもいい?」
「理由は?」
「だって……あなたと会えなくなるのはなんか嫌だもの。ここに来られなくなっちゃうし」
背後の道化師を見上げれば、虚を突かれたような顔をしていた。何故そう思ったのか自分でも不思議だけれど、今日の道化師は……ドロフェイは別に怖くなかったし楽しかった。
「代わりに何を望むんだい?」
「ゲロルトを悪意から解放してあげることはできない?」
「ふうん。キミは僕に会いたいと言いながら、ゲロルトの解放を望むのかい?」
「難しいこと?」
「いいや。ごちそうが無くなるのは残念だけれど、悪意なんてそこら中にあるから、ね」
ドロフェイはそう言うと、器用にも片手で私のシャツのボタンを外し始めた。
「ちょっと!」
焦って止めようとするけれど、あっという間に上から3つのボタンが外されてしまう。ドロフェイの指がボタンが外されたシャツの隙間から服の中に入り、肌を滑っていく。
「やだ、っドロフェイ!!」
「フフフ、そうやって取り乱す姿をもっと見てみたいけれど」
ドロフェイの指が鎖を引っ張り出した。アルフォードから預かった石と、ユリウスの魔力の結晶が嵌めこまれたロケットが服の隙間から取り出される。
「ふうん。もっと濃ければ届くだろうけれど、これじゃあ足りないな」
取り出した物をしげしげと眺めながらドロフェイが言う。
「え……ロケット……?」
「フフフ、期待したのかい?」
「そんなわけないでしょ! もうっ、言ってくれれば普通に見せたのに」
「それじゃあ、つまらないだろう?」
「つまらなくていいよ!」
ドロフェイはにやにや笑っている。なんだか嫌な予感がする。
「いいことを教えてあげよう。キミのココを水の加護で満たせば手を握ってもらう必要はないし、歌以外でも奉納できるよ」
ドロフェイが指さした先を見て何のことかと首を傾げる。
「キミ、察しが悪いにもほどがあるよ」
そう言われた瞬間、意味が分かって顔から火が出た。
「この、セクハラ道化師ーーーーーっ!」