水の加護
北館は同じような部屋が1つの階に20部屋ほど並んでいる。
部屋の中は結構広くて12畳くらいはあるだろうか。部屋に入って正面に窓が2つ。備え付けの寝台は入り口側と奥側に並んでいる。入口から見て右側の壁には暖炉を挟んで奥と手前に衣装棚のような作り付けの棚がある。
隣の部屋が丁度暖炉を挟んで左右対称になっているのは、排気口を共有しているからだろう。暖炉は灰が掻き出され、中には先日搬入された薪ストーブが置かれていた。
薪ストーブの前には小さな丸テーブルと椅子が2つ。これも元からあった物であるらしい。
薪ストーブを考案した者は随分と良心的な人物であるらしく、誰もが購入できるようにと非常に安い価格設定をしていた。設置費用もかからないように工夫されており、元々あった暖炉の煙突にちょっとした細工をするだけで簡単に設置できた。
北館はアロイスが言ったように騎士のために作られたらしいのだが、そもそもこの国に騎士という階級は無い。昔はあったようだが、今は徴兵制になっており騎士はいないのだという。
ならばなぜ騎士のための部屋があるのかと言えば、ヴィーラント陛下が子どもの頃に物語を読んで憧れていたからだという。もちろん騎士の部屋を作らせたのは陛下ではなく、ゲロルトと癒着していた官僚だろう。忖度というやつだ。
肝心の主がいない北館に並ぶ部屋は城で働く人々が使っていたらしいが、本館にもそういった部屋があるし南1号館も使っていたようだ。対して北館はあまり使い込まれている気配は無かった。
アロイスは私設塾にいた時とは違ってクリストフと同室だった。窓側の寝台をアロイスが、入り口側をクリストフが使っているのには理由があるようだ。
なんでもクリストフは夜中に街に繰り出していたらしい。事務所の責任者としては看過できない話だったが、今はそんなことはしていないと本人が慌てて否定していた。まあ昨日の城から東門にかけての暗さと寒さを思えば、フラフラする気にならないのもわかる。
フルーテガルトの街には以前は一定数の娼婦がいたらしいのだが、ヴィーラント陛下が亡くなった後、ほとんどの者は王都に居を移したという。今は宿屋付きの娼婦が数名残っているだけのようだが、宿泊客が対象であるためにクリストフが会うこともないだろうと油断していた。
だが、よくよく考えてみればこういうダメ大人は玄人さんにお任せするのも手なのかもしれないと思う。街の一般の女性たちに手を出されるよりはよっぽどいい。ちなみに私は驚いたものだが、元の世界のドイツでは売春は合法だ。
「春以降は要注意ですね。クリストフがフラフラするようだったらレイモンさんに言い付けますからね!」
「ひどいな、マイスター。僕はそんなことはしないよ」
眉根を寄せるクリストフだが、簡単に信用するわけにはいかない。まったくこのダメ大人はどうやったら矯正できるのだろうか。やっぱりレイモンの所に預けるべきだろうか。
悩む私を見て寝台に横たわったアロイスがくすりと笑った。アロイスが倒れた翌朝、私はラウロと共に早めに出勤して北館を訪れたのだ。
「良かった。昨日よりは顔色がいいようですね」
「心配をかけてすみません。怠さが少し残っていますがどこかが痛むわけではないのです。仕事にも行けるのですが」
「ダメです! 生徒さんもいないのですから休んでいてください。先月はほとんど休めなかったでしょう?」
「それは僕もなんだけどな、マイスター」
「クリストフは元気が有り余ってるんじゃないですか? 髪もさらさら、お肌もつやつや。なんか腹立たしいです!」
女である私よりもさらつやって、ホント、ムカつく! まあ、私は手入れなどしていなかったのでダメなんだろうけれど。でも最近は律さんにいただいたお手入れセットも使っているのだ。だってユリウスもガサガサよりすべすべのほうが好きだと……思う……し?
ユリウスのことを思い出して少しだけ頬が熱くなった私は咳払いで誤魔化す。
「んん゛っ、それで、休んでいるところを申し訳ないのですが、昨日の話を伺いたかったのです」
「構いませんよ。ただ、私は貴女だけにお話ししたい」
アロイスの言葉に目を瞬く。私にだけ? 道化師とのことを知らないクリストフはともかくとして、ラウロも?
ラウロを見上げれば心持ち眉を顰めたが、クリストフに促されて退室していった。
2人の背を見送ったアロイスは、扉が閉まると怠そうに身を起こした。なんだろう? こんな感じの光景を前にも見たことがあったような気がする。
「昨日、貴方が倒れていたレッスン室の扉を開けた時……」
訝しく思いながらも昨日の様子を思い浮かべて話し出す。扉を開けた時に冷たい空気が流れてきたこと、窓が凍っていたことを話す。
目を閉じて頷きながら聞いていたアロイスは、私の話が終わると苦く笑った。
「あれは……見ていただいた方が早いですね。手を出してもらえますか?」
アロイスの言葉に私は躊躇いながらも左手を差し出す。私の手を取ったアロイスは、手のひらが上向くように自分の左腕を使って固定し、私の手に右手を被せた。握りこむわけではなく、上に屋根を作るような感じだ。
何が起こるのだろうと注視していると、手のひらが冷凍庫の中に入れた時のようにひんやりとして、すぐにコロンと何かが落とされる感触がした。
アロイスが被せた右手を外すと、私の手のひらに小さな氷の粒があった。
「これは……」
「私は水の加護を持っていたようです」
「水の加護?」
「ええ、水の魔力のことですね」
加護という言い方は初めて聞いたが、アロイスが出した氷はユリウスと同じように水の魔力によるものらしい。
「実は私も詳しくないのです。つい最近気が付いたので」
「そうなのですか? いつ頃気が付いたのです?」
「フルーテガルトに……、いや北館に住むようになってからですね」
不思議な話ではあるが、クリストフとラウロを部屋から追い出したのも納得がいった。魔力持ちは徴兵されてしまうのだ。ゆえに秘す者が多い。ユリウスもその一人だ。
それにアロイスの怠そうな様子に見覚えがあったのも頷けた。囚われた時に見たゲロルトの様子にとても似ていたのだ。
「今のように少し使う分にはそれほど負担はないのですが、昨日は練習後に楽譜を読み込んでいて……何がきっかけだったのかはわからないのですが、突然、一気に力が抜けていくような感じがして、驚いているうちに窓が凍り付いたのです」
「暴走みたいな感じなのでしょうか?」
「あのような経験は初めてでしたのでわかりませんが……驚いているうちにもどんどん力が抜けていって、あのようなことに」
同じ魔力を持つユリウスに意見を聞きたいところだが、ここにはいないし、アロイスはたぶん知られたくないだろう。
「アロイスの魔力を知る者は、他にもいるのですか?」
「いいえ。貴女だけです」
氷が解けてもそのままだった私の手を、アロイスは右手で握り込んだ。
「貴女だから、お話ししました」
アロイスが私の手を引き寄せて唇を寄せる。咄嗟に手を引こうとしたが、がっちりと肘を捕まれて逃げられない。甲に、指先に、食まれるような感覚がする。
アロイスの行為に驚く私だが、何よりもその冷たさに息を呑んだ。アロイスの手も唇も、生きている人のものではないように冷たいのだ。
「アロイス……あのっ、止めてくださいっ」
「まだ話は終わっていませんよ」
私の手に口を寄せたままアロイスが言う。雰囲気に飲まれてどうしていいのかわからない私だが、なんだか負けてはダメだという気がして眉間に力を入れた。
「まだって、他にも何かあるのですか?」
「ええ。ゲロルトのことです。聞きたくありませんか?」
聞きたいに決まってる。だけどこの状況も勘弁してほしい。
困り果てる私を見てアロイスが密やかに笑う。指にかかる息がひんやりと冷たくて、指先から凍ってしまいそうなほどだ。私は大きく息を吐きだして、意識して冷静に聞こえるように、ゆっくりと告げた。
「手を、放してください」
「聞きたくないのですか?」
「聞きたいですが……ピアノが弾けなくなってしまいます」
暗に手が冷たいのだと言えば、アロイスは傷ついたように目を伏せ、手を解放してくれた。
音楽にこじつければどうにかなると、とっさに思いついた私の作戦勝ちだ。しかし、そんな風に傷ついた顔をさせてしまうとは。どうにも罪悪感を感じてしまう。手が冷たかったのは本当なのだが。
「申し訳ありません。貴女の音楽を損なうところでした」
アロイスが私の手をストールで包む。私がアロイスからもらった、そして昨日はアロイスに掛けたぶどう色のストールだ。ふわふわが手を包んでほっと息を吐く。
「あの……アロイスの手や息は、どうしてそんなに冷たいのですか?」
「魔力を使った後に冷たくなるようです。手や息だけではないようですね。自分ではわからなかったのですが、昨日はクリストフやカスパルに肩も頭も全部冷たいと言われました」
ユリウスが魔力を使った時はどうだっただろうかと思い返してみる。バウムガルト伯爵が襲撃してきた時に膝を手当てしてもらったけれど、そこまで冷たいとは思わなかった。
「ゲロルトは熱くなるようですね」
アロイスの言葉に私は目をしばたかせた。
「話してくれるのですか?」
「もともと冗談のつもりでしたから」
そうなのだろうか? アロイスの目は伏せられていて表情が読めず、どう受け取ったら良いのか私には判断がつかない。
「貴女もご覧になった通り、ゲロルトが術を使った後も私と同じような状態になります。ただ、ゲロルトの場合は体の内側に熱を持つようですね。イージドールが言うには、触れると少し熱を持っている程度のようですが、ひどく暑がっていました」
私が捕まった時のゲロルトはどうだっただろうか? ひどく怠そうだったのは覚えているが、暑そうにしていただろうか? 夏だったし部屋の空気も重くて暑苦しかったからよくわからない。
「そういえば、ドロフェイを……道化師を呼んでこいと、言っていましたね」
「ええ。私も詳しくは知らないのですが、ドロフェイはその熱をどうにか出来るようですね。怠さの方はどうにもならないようですが」
どうやって? いや、それは考えても仕方がないことだ。あれはたぶん人ではないのだから。
「昨日、貴方が倒れる直前に、道化師の気配を感じたのです」
「気配がわかるのですか?」
「なんとなくですけれど。もう何度か会いましたし、音とか匂いとかではないのですが、空気が変わるというか…………うまく言えません。でも昨日は姿を見かけませんでした。アロイスの前には姿を現しませんでしたか?」
「見ていませんね」
来ていたのかどうかも定かではないが、来ていたのだとしたら一体何が目的だったのか。
思い悩む私は、当の本人にすぐに会うことになるとは思いもしなかった。