凍り付いた窓
その日、私は事務所に居残ってピアノ協奏曲の練習をしていた。
ハッとして顔を上げると、ラウロは普段通りに入り口の近くに椅子を置いて本を読んでいて、私が動いた気配に気づいたのか、横目でチラッとこちらを伺った。
気のせいだろうか? どう表現して良いのかわからない、覚えのある気配。道化師だと思ったのだが……。
周囲は特に変化が無く、部屋の中もいつも通りだ。何よりもラウロに変化がないのだから、気のせいだったのだろう。
気を張りすぎているのかもしれない。ため息を吐くと白い息が零れた。
数日前、ケヴィンと入れ違いにテオとダヴィデが帰ってきた。
テオは父親と話をして、教本の裏表紙のロゴについて下級貴族に情報を広めてもらうよう頼んできたという。久々に父親と会ったというのに、テオの表情は普段の明るいものとは違って固かった。ひょっとしてテオを引き取ることを反対しているという義母も同席したのだろうか。テオにとっても王都は居心地の良い場所ではないのかもしれない。
ダヴィデはベルトランが行きそうな場所を探したようだが、本人は見つけられなかったという。ただしダヴィデは情報を持ち帰ってきた。
1か月ほど前、ベルトランが良く行っていたコーヒーショップに女性と2人で来ていたという。その女性はベールで顔を隠しており、ヤンクールの女性が着るような服装をしていたそうだ。
カミラだ。そう、直感した。
カミラとベルトランに元々繋がりがあったのかはわからない。念のため、ケヴィンとユリウスには手紙で知らせたので、何らかの調査がなされるだろう。
支部の周りをうろついていた者たちが何者だったのかも不明だ。ダヴィデが顔を見たという者たちと路地に潜んでいた者たちが、仲間なのかどうかもわからない。
楽譜を閉じて私は立ち上がる。今日はもう集中できないだろう。時間もそろそろ22時になる頃だろうか。時計がないからわからないが日付は変わっていないだろう。歩いて帰ることを考えればそろそろ引き上げた方がよい。そう考えて横に置いてあったぶどう色のストールを羽織る。
ピアノの蓋を閉じようと手を伸ばした時、ミシミシと音が聞こえてきた。ラウロが素早く私の側に寄り、腕を掴む。
「なに? 今の音……」
小声でラウロに問うが、ラウロだってわかるはずがない。無言で私の腕を掴んだまま、足音を立てずに入り口に向かう。私を背に庇って少しだけ扉を開け、外の様子を伺う。
ガタガタッ、ガタンッ
隣のレッスン室から何かが倒れるような音が響き、私はびくりと身を震わせた。その部屋ではアロイスが練習していたはずだ。
「行ってみましょう」
ラウロを見上げて私は言う。少し迷うような素振りを見せたラウロだったが、私の腕を掴んだまま部屋の外へ足を踏み出した。
廊下から見たレッスン室は特に異常は感じられない。ラウロは私を廊下の壁に押し付け、背で庇うようにして扉を引いた。
部屋の中からは、ひんやりとした空気が流れてくる。
なぜ廊下より寒いのだろう?
そう思ってラウロの背中越しに部屋を伺えば、誰かが倒れているのが見えた。
喉が焼けるようにヒリヒリして、何かを叫びたいのに声も出ない。
黒い柔らかそうな髪が見える。アロイスだ。
息を呑むと同時に腕が引っ張られた。ラウロが大股でアロイスに近寄る。足が震えている私は引き摺られるばかりだ。
「う…………っ」
アロイスの呻き声が聞こえた。
「っ、アロイス! どうしましたか? アロイスっ!!」
息をしていると思った瞬間、焼け付いた喉から悲鳴みたいな声が出た。
「アロイス? 大丈夫ですか!?」
肩を掴んで揺さぶる。服越しにも驚くほど冷たくなっているのがわかる。
「あ……アマ、ネさん…………すみません……体調が…………」
「具合が悪いのですか? どこか痛みますか?」
はあ、と大きく息を吐いたアロイスは、ひどく怠そうに体を横に向けた。
「申し訳、ありません。少し、めまいがしただけです」
「本当に? 顔色が随分悪いようですが……」
アロイスの顔を覗き込めば、随分と青白く、エルヴェ湖の澄んだ青だけが、どういう訳だかいつもよりも濃く光っているように見えた。
「すみませんが、クリストフか……カスパルを……呼んできてもらえますか?」
アロイスが億劫そうに手で顔を覆って言う。
「ラウロ、お願いします」
「アンタも一緒に来い」
「でもアロイスを一人にできません」
「ダメだ。アンタがここにいるなら俺もいる」
「ラウロ……」
ラウロの言いたいことはわからなくもない。私が残ったとして、万が一にでも賊が入った場合に何もできない。アロイスも動けない。護衛としてはそんな状態のアロイスに私を預けることは出来ないということだろう。
私は少し考えて、肩に羽織っていたぶどう色をアロイスに掛けた。
「すぐに呼んで来ますから、少しだけ待っていてください!」
ストール越しに肩を摩りながらそう声をかけると、お願いしますとアロイスの呟くような声が聞こえた。
顔を上げてラウロを見上げると、ラウロは目線だけで窓を見るように示した。南側に面したレッスン室には、腰より上の位置に格子が付いた観音開きの大きな窓が4つある。外は崖になっており、窓からはエルヴェ湖が見えるはずだが、今はただ闇が広がっている。
それを見つけた時、私はそこだけ違うガラスが嵌めこまれていたのかなと思った。
4つある大きな窓の1つ。私たちがいる場所から一番近い位置にある窓だけが、霜が何かの模様みたいについて凍っていた。
◆
北館に行って呼んできたクリストフとカスパルによって、アロイスは自室に運び込まれた。
「後は任せて。マイスター、君は火の始末をしたら帰ってお休み」
「クリストフもカスパルも、何か異変があったら必ず知らせてくださいね。明日は早めに来ますけど、夜中でも構いませんから」
「アロイスは大丈夫ですよ。顔色も少し良くなりましたから」
クリストフとカスパルに諭され、私とラウロは南1号館の火の始末と戸締りをして家路へ着いた。
帰りは徒歩だ。ヴェッセル商会の馬車は2台で、1台はユリウスがスラウゼンに乗って行き、もう1台はケヴィンが王都に乗って行った。アマリア音楽事務所には馬車がないので歩くしかないのだ。
真っ暗な下り坂をラウロに手を引かれて歩く。空は分厚い雲に覆われているのか、月も星も見えない。ランタンの光を頼りに歩いていると、自分がちゃんと地面に足を付いているのか時々わからなくなる。
夜ってこんなに暗かったのか。光に包まれた元の世界では想像もつかなかった暗さだ。左手はエルヴェ湖畔で草木が茂っている。右手にも森があって街の光は全く届かない。この道にもアーク灯があればいいのに。
心許ない感覚を振り切るように私はラウロに話しかけた。
「あの窓は何だったんでしょうね」
「……わからない。だがあの窓だけ凍っていたのはおかしい」
確かにラウロの言う通りだ。凍っていた窓は一部だけでなく、全体が凍っていたようだった。私たちがクリストフたちを呼びに行っている間に氷は解けてしまったので、詳しくはわからないままだ。
「それに扉を開けた時、廊下よりも冷たい空気が流れてきました」
「ああ。覚えている」
「ひょっとして窓を開けていたのでしょうか?」
「だが、開け閉めしたのなら音が聞こえたはずだ」
ラウロは耳が良い。私が練習に夢中で気が付かなかったとしても、ラウロなら気が付く。窓は観音開きで真ん中に掛け金が付いている。開け閉めすればなんらかの音がしたはずだ。
「アンタは何かに気が付いたんじゃないのか? 顔を上げていただろう?」
「え……そうでしたか? …………あ、そうだ。道化師の気配がしたような気がしたんです」
「顧問が言っていた宮廷道化師か」
ラウロは道化師に会ったことはなかったはずだが、ユリウスから警戒対象として話を聞いていたようだ。
「ええ。でも気のせいだったのかもしれません。現れませんでしたし」
「隣のレッスン室に来ていた可能性は?」
「アロイスのところにですか……?」
道化師とアロイスはゲロルトの仲間だった。ヴィルヘルミーネ王女の慈善演奏会における道化師の様子を考えれば、道化師はアロイスがライナーであることに気が付いていると思う。だが、そうだとしても道化師がアロイスのところに来る理由が思い浮かばない。
「道化師が来たのだとして、アロイスに危害を加えて得をするようなことはないと思います」
「アイツを使ってアンタをどうこうするつもりじゃないのか」
「それなら私のところに来るでしょう? 来られないわけではないのですし」
本当に理由がわからない。そもそも本当に道化師だったのだろうか?
「考えてもわかりませんね。明日アロイスに聞いてみましょう」
東門の明かりが見えて来てちょっとだけ安堵する。こんばんはと挨拶をすると、当番の門兵たちは笑って声を掛けてきた。
「こんな時間まで頑張ってたのかー? ちっせーのに頑張るなあ」
「芋、食ってかねえか? ふかしたてのがあるぜ?」
ほかほかと湯気が立つジャガイモが皿の上には2つ。ジャガイモの上にはチーズがとろりと溶けている。
「そういえば晩御飯食べてなかった……ごめんなさい、ラウロ。いただいちゃいましょう」
食欲はそれほどなかったが、ほかほかしていて食べたら体が暖まりそうだ。
「私の護衛をしてたら、ラウロが痩せちゃいますね」
「ちゃんと食ってるから問題ない」
「いつの間に? どこで食べてるんですか?」
「見回りの時に、ここで」
それは知らなかった。食事を取っていたこともだが、東門まで見回りに来ていたなんて。
「南門の前を通ると、このすぐ近くに出る」
いぶかしく思った私を察したのか、ラウロが説明してくれる。
「ラウロがあんまり心配すっからなあ」
「俺らも気になって、時々見に行くようになったんだぜ。なあ?」
「おうよ。だから、お前さん方は安心して仕事してろ」
そう言って門兵たちは快活に笑った。