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バロック・オペラ

 元の世界においてよく上演されるオペラといえばロマン派のグランド・オペラである。しかしオペラの歴史を遡れば、バロックの時代にオペラは誕生している。


 大航海時代を経て音楽が多様化したバロックの時代。カストラートと呼ばれる存在がいた。ボーイ・ソプラノの声質を持続させるために去勢された男性歌手である。バロックオペラの主役は彼らが担った。私が生きた時代に演奏されることが少ないのも当然である。


 音楽のルーツを辿るとグレゴリオ聖歌に行き付く。グレゴリオ聖歌は中世初期に生まれた。グレゴリオ聖歌は単旋律の音楽で、それ自体を聞いてもそれほど楽しいものではない。しかし音楽史を語るに欠くことができない重要な起点でもある。


 グレゴリオ聖歌の誕生後、これを元に高音部に音楽を足すようになる。中世の作曲とはグレゴリオ聖歌の編曲のような行為を指す。おもしろいことに高音部に別の歌詞をつけるようになり、それがまた宗教とはまったく別物の風刺であったり、恋歌であったりと謎な発展を遂げた。おそらく一部のけしからん聖職者の密かな楽しみだったのではないかと思う。


 中世は教会の力が強かった時代である。それが十字軍の度重なる失態を経て失墜し、古き良き時代だった古代ローマを人々は懐かしんだ。

ルネサンスである。14世紀のことだ。


 ルネサンスの時代、イギリスとフランスの100年戦争があり、イギリスの音楽や文化がヨーロッパ大陸に流れ込む。現在使われている楽器にはこの頃に流れ込んだとされるものもある。


 さらに時代は飛んで中世後期から近世初期にかけて大航海時代が幕開ける。それと共に様々な異文化が流れ込む。音楽が多様化した時代だ。


 エコー効果が用いられるようになったのもこの頃だ。エコー効果が用いられているのかどうかは教会を見ればわかる。合唱隊席が二つ備えられているからだ。


 グレゴリオ聖歌に重なるように独立性を持つ旋律をつけ、ついでに歌詞も全く別なものを重ねたりしていたのがバロック以前の音楽だ。楽器が奏でられさらにエコー効果も取り入れられて……と想像してみれば、歌詞が聞き取りにくいことこの上ないのがおわかりいただけるだろう。


 バロックオペラは歌詞性を重要視し、音楽劇として成り立たせるために単独で歌うことを取り入れた、当時は画期的なジャンルの音楽だったのである。






閑話休題 ――


 劇場に到着し、予約したボックス席に歩を進める。周りは貴族らしい煌びやかな衣装の者が多い。


 そういう私たちも盛装だ。ユリウスは明るめの紺色で、私は淡いグレーのジュストコールという膝丈のジャケットに身を包んでいる。当然私はモーツァルトみたいだとはしゃいで白い鬘を被りたいと言ってみたが、そんなものはないとユリウスに怒られただけだった。


 周りの貴族たちは金糸銀糸を前立てや袖にあしらっており、襟や袖口からレースが覗いていて大変華やかだ。


 一方、私やユリウスのジュストコールは同系色の刺繍が施されている。個人的にはよく見ればおしゃれ、という感じが気に入っているが、貴族たちと比べると幾分地味ではある。


 普段のユリウスやデニスはシャツにベストという割と簡素な服装だが、二人が言うには商人は服装にお金をかけないそうだ。かけたとしても寒い時期に服の裏側に毛皮を張ったり、見えないところで贅沢をするらしい。おしゃれよりも実用第一なのだろう。


 流石に貴族が集まる場に出なければならない場合は、今回のような貴族風の格好をするということで、私が着ているのは、ユリウスの一番下の弟さんの衣装を手直ししたものだ。アーレルスマイアー侯爵の演奏会に出る可能性を考えれば、数着準備した方がいいと言われ、ハンナが採寸してくれたのだが、仕立てが間に合わなかったのだ。


「ヴェッセル商会のユリウス殿ではございませんか?」


 商人らしき恰幅の良い男に声をかけられ、瞬時に笑顔の仮面を装着したユリウスが振り向く。


「アルムスター商会のゲープハルト様、先ほどはお時間をいただきましてありがとうございました」

「いやいや、最近印刷の方にも手を伸ばされたという噂を聞いておりましたが、今日の会合で納得いたしましたよ。それで、そちらが……?」

「ええ。ですが、申し訳ございません。ここではご容赦ください。……ユニオンの者も見かけましたので」


 後半は小さな声でユリウスは告げた。ユリウスは渡り人であることは言わずに私を紹介した。


「私も見かけましたよ。小領主が数人一緒でしたな。こんな目立つところで何をしているのだか」


 ユニオンは王とヴェッセル商会の癒着疑惑に絡んで嫌がらせをしてきた者たちだ。近くにいるのだろうかと目だけ動かして探してみるが、わかるはずがなかった。


「しかし男同士でオペラとは、ユリウス殿はまだご結婚される気はないのですか? いや、実は私の姪が……」


 ペラペラと話し続ける男に圧倒される。ユリウスはあまり話さないが、普通の商人ってこんな感じなのだろうか。


「アマネ殿、今度ぜひギルドの方にお顔をお出しください」


 散々姪のアピールをした男は、最後に思い出したように私に声をかけて去っていった。


「ユリウス、今日ってギルドに行ってたんだ? どこかのご令嬢と逢引きかと思ったよ」

「馬鹿者。ギルドで会合もあったが、チケットの手配も頼んであったのだ」

「そうなの? いやあ、今日のユリウスの衣装、素敵だね。あ、もちろん普段もかっこいいよ!」


 チケットという単語を聞いて態度を急変させる。ユリウスは胡散臭そうに睨んできたが、いや本当にかっこいいと思ってるよ。眉間の皺さえなければね。


「おや、ユリウスじゃないか」


 そんな私たちに声をかけてきたのは、華やかではないものの質の良い衣服を来た年配の男性だった。


「ハルトマン先生。こんなところでお会いするとは珍しいですね」

「私も付き合いというものがあってね。そちらはご友人かね?」

「はい。友人のアマネです。アマネ、私が時々相談に乗ってもらっているハルトマン先生だ。アカデミーで教鞭を取っていらっしゃる」


 先ほどの張り付けた笑顔の仮面とは打って変わって穏やかに微笑むユリウスに、私は驚くしかなかったが、なんとか取り繕って挨拶をする。


「ユリウス、モーリス・グラッセの書籍は読んだかね?」

「はい。非常に興味深い内容でした。ですが我が国では難しいと思います」

「そうだね。ヤンクールやアールダムでは随分と共感を得ているようだが、悲しいことだが我が国ではまだ追いつけないね」


 何やら難しい話になってしまったが、話を合わせるべく懸命に耳を傾ける。どうやら理性で迷信や偏見を無くすには道徳教育が必要だということを論じた本であるらしい。文字や計算は初等学校で教えていると聞いたが、道徳教育までは手が回っていないのかもしれない。


 ラースとのさきほどの会話もちょっと思い出す。ユリウスは魔女狩りのような事態を防ぐために道徳教育が必要だと言っていた。


「まずは国内を安定させなければ。特に小領地では新しいことを受け入れる余裕が民にはありません」


 エルマーが小領地には初等学校しかないと嘆いていたのを思い出す。


「しかし男二人でオペラ鑑賞とは嘆かわしいぞ、ユリウス」

「先生、そういうお話は……」


 空気を変えるように軽口を叩く教授に対し、ユリウスが対処に困ったように口ごもるのを見て目を瞬く。さっきの商人風の男の話には完ぺきな作り笑顔だったというのに、この年配の男性には通用しないということだろうか。


「まあ、今日はオペラを楽しむがいい。アマネ殿も」

「また研究室に伺います」


 そう言って教授と別れたユリウスは私をじとりと見た。


「お前に女装させてくれば良かったな」

「女装って……一応、本物の女なんだけど。ケンカなら買うよ?」

「……そうだったな。すまん」


 周りに人がいるため小声で応酬したが、非常に珍しいユリウスの謝罪を聞いて満足する。


 何とはなしに周りを見回すと、舞台前に演奏者たちが入場していた。客席の上の方に目を向けると金管楽器が、舞台前を見れば弦楽器や木管楽器を持つ演奏者が座っている。


「ふおぉぉぉ……バロックトランペット……あれ、リュートかな……?」


 バロックトランペットは元の世界で見慣れたものとは違ってピストンがない。リュートは通奏低音に使われる弦楽器で琵琶に似ている。


「あ、リコーダー。ユリウス、トラヴェルソってオペラではあまり使わないの?」

「トラヴェルソは貴族に愛好家が多いが合奏では音が小さいのだ」


 私がザシャに改善を頼んだ、横笛タイプのトラヴェルソはフルートの原型とされている楽器だが、今回のオペラでは使われていない。ユリウスの説明によれば、リコーダーがフルート的な役割を果たすらしい。


 今まで目にした楽譜や楽器の様子から、この世界の音楽はバロック音楽に似ているのではないかと予想していたが、外れていなかったようだ。


 すれ違う人々の間から楽器を覗き見つつ、ユリウスに袖を引かれて歩いていると、階段の手前にいた男性と目が合った。柔らかそうな癖のある亜麻色の髪を後ろで一つに纏めていて、灯りの関係で目の色はよくわからないけど、なかなか優雅で美麗な男性だ。


 階段を上るために近づいていくと、すれ違う直前にくすりと笑われた。


「ライナー!」

「遅いぞ、クリストフ」


 何かおかしなことをしてただろうかと思わず赤面していると、待ち合わせていたのか、これまた美麗な男性が駆け寄ってくるのが見えた。


「何を惚けている。さっさと行くぞ」

「え、うん……」


 止めそうになった足を再び動かして階段を上る私は、自分が男装していて良かったと心底思った。あんな綺麗な男性たちがいるのだから、私が女の格好をしたところで敵いっこないと思う。競争心を持つことすらおこがましいし、そもそも女と認識してもらえるのかも怪しいものだ。


「見て! ヴェッセル商会のユリウスだわ」

「まあ珍しいわ。あの涼し気な眼差し。素敵ねぇ」


 気が付けば柱の影やボックス席からこちらを伺う気配があり、ご令嬢たちのひそやかな声も聞こえてくる。


「ふうん? ユリウス、ご令嬢たちが見てるよ」

「そうだな。面倒なことだ」

「そういうこと言っちゃうんだ。何? その作り笑顔」

「客になるかもしれないからな」


 ニヤニヤと揶揄ってみれば、ユリウスが完ぺきな笑顔をしてみせた。即時に着脱可能とは便利な笑顔だ。でもその笑顔でそのセリフはダメだろう。


 指定されたボックス席に着くと、さっさと入れと背を押される。ご令嬢たちの熱い視線をもっと浴びてたらいいのに。


「モテるなら、さっさと結婚しちゃえばいいのに」

「馬鹿なことを言うな。俺は商人だぞ。貴族相手などありえん」

「え、でも商人から貴族に嫁いだ人がいるって誰かに聞いたような……?」

「女が貴族に嫁ぐならば、ない話ではないが、普通は周りが反対する」


 そういうものなのか。そういえば、自分が結婚に興味がないせいか、積極的にこの世界の風習を知ろうとしたことがなかった。


「お前はどうなのだ。ベートーヴェンというのはそういう相手ではないのか?」

「はい? ベートーヴェンは尊敬の対象であって恋愛対象なわけないよ!」


 どうしてそうなった。そもそも同じ時代に生きてない。ユリウスは凶悪な顔つきでザシャの名前を呟いている。


「ではあちらの世界にそういう相手はいなかったのか?」

「おうふ、ブーメラン……いないよ、そんな人」

「何故だ。俺の一つ下ならば」

「ストップ。言いたいことはなんとなくわかるけど、むこうは割とのんびりだったんだよ」


 親にはうんざりするほど言われた『行き遅れ』の単語が聞きたくなくてユリウスの言葉を遮る。25歳は別に行き遅れではないというのに、あまりにものんびりしすぎの娘を心配したのか、このままでは行き遅れるぞと何度も言われたものだ。


 私自身は深刻には捉えていなかったが、ダメージは着々と蓄積されていたようだ。世界を跨いでまで、しかも身内でもない異性から言われるのはごめん被りたい。


 周りの友人たちには結婚した者もいたし、友人の結婚式に出ればいいなあと思うことがないわけではなかった。


 だが結婚に至るまでの過程を思えば面倒だったのだ。食事をしたり遊びに行ったり、そういう時間がもったいなかった。それに万が一にもそういうことがあったとしても、服装を考えるのが面倒になって家ジャーのまま出掛ける可能性が高い。女子力マイナスと兄には笑われたが、要は仕事が楽しかったのだ。


 あまり重くならないようにユリウスに説明すれば、ものすごく納得した様子で頷かれた。鼻で笑われるかと思ったのに。


 そうこうするうちに正面の入り口から黒くて長い衣装を着た、厳めしい男性が入ってきた。


 男性がオーケストラの前に立つと一斉に拍手が鳴り、演奏が始まる。


 その瞬間、周りから雑音が消えた。


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